友達論について

今更ながらやっとこのnote記事を見て、一応思ったことを。

この人の友達・親友観はともかく、自分はどうかというと、まず自分には「親友」みたいな間柄の関係はない。僕にとっては、強いて言えば知人も友人も親友も同じで、友達に序列をつけることをあまりしたいと思わない。言い換えれば、そんなに親しい人はおらず、今までも出てこなかった。

学生時代より長年関係が続いている友人はいるか?地元の同級生で連絡先を知っている人はいる。こちらから連絡すれば会えるだろう。でも普段からの付き合いはない。高校に至っては連絡先を知る人がまったくおらず、大学は一人だけ。それも6年ほど前に会ったきり。会社員の頃に知り合った人で、今も連絡をとり合う人はいない。その後知り合った人で、定期的に会う人はいるけど、それは奥さんも含めたグループという間柄で、自分の個人的な友人ではない。だから個別に連絡をしたり会ったりはない。

このグループというのはまた別の話になるな。地元の同級生もグループで付き合いがあるだけで、個々の関係は希薄と言える。個別で会ったり連絡を取り合うことは滅多にない。

なぜそうなるのか。自分が友人関係を作ったり、維持することを求めてこなかったからか。それとも単に人付き合いが苦手な孤独な人間だから!?思い返せば、彼女欲しいと思ったことがないのと同じぐらい、友達欲しいとも積極的には思ったことがないかもしれない(幼少期にはあったと思う)。友達というか、その場の人間関係みたいなものは、欲しがって頑張るものではなく、勝手にできるもんだと思っている。だからそれを維持しようと、努力することもないのかもしれない。

高校生の頃、席が近い人に誰彼構わず話しかけては話し続けていた。相手が友達である必要性を感じたことがなかった。多分友達ではなかったと思う。ただ近くにいたから関わっていただけ。そういう人付き合いをずっとしてきた気がする。それで十分足りていた。それ以上を求めなかったし、きっと相手からも求められなかった。よく家に遊びに行っていた人もいたけど、それは共通の趣味とかそういうのだった。

だから友達というよりは行き当たりばったりな人間関係が、大人になってからもできては消えていく、というのが僕の友人観になってくる。それは30を越えても同じで、人間関係は身の回りで勝手に起こるものという認識になっている。長く続けば友達、親友足り得るのかもしれないが、そのへんは自分にはよくわからない。グループを除けばそんなに続いている関係はなく、それが知り合いか友達か親友かなんて、どっちでもいいじゃないかとさえ思う。

例えば映画パーフェクト・デイズの、役所広司が演じる平山さん。あれを人付き合いがなくて寂しいとか心細いとか惨めだと思うだろうか?そこで友達観もけっこう分かれるんじゃないか。あの生活が平気だったり、パーフェクトと感じる人は、生活の上でも友達を必要としていない気がする。

2024.4.17

これといってなんもないな。自分で自分を追い詰める悪癖がある。黄砂がひどくて外へ出る気がしない。ここ数年はずっとシニア向けコンテンツばかり消費していて、とことん枯れてるなーと思う。昭和です。

写真は2014年、トロントの駐輪場。トロントは街中に自転車を駐めるところがあった。自転車に乗る人がそんなに多くない。移動手段としてはスケートなどと分散している。

2024.4.16

オーディオテクニカのAlways Listeningというページを見ていた。

最近も更新されていて、いつからあるんだろうここ。ログをたどっていくと2019年からだった。けっこうしっかり長く更新されている。基本はレコード周りの記事が多いのかな。音楽ニュースサイトなのだろう。気になったのをいくつか。

けっこう尖ってない!?

写真は2014年、トロントのどこか。

2024.4.15

地獄のような円安が続いてるなか、LCCがセールの告知をしている。ジェットスターはオーストラリア復路5,000円、ピーチはバンコクが2人以上で10%オフ。今のところ当分海外旅行の予定はない。国内は行く。

マイレージカードの年会費が上がるため、解約する予定。それにともない、手持ちのマイルを使い切ろうと考えている。そんなに貯まっておらず、国内なら夫婦二人往復使える程度。航空券はもうLCCばかりでマイルが貯まることも使うこともなくなり、ましてや旅行しなくなったため、マイレージカードも無用の長物となって久しい。契約したのが13年ほど前。お世話になりました。

写真は2015年、パース市街地、だったと思う。なぜここでこの写真を撮っているのか、記憶にない。

2024.4.14

自分の中に解消されないものというか、溜まっていくものがある。それが重荷のようになっており、ときどき顔を出してそのへんを蹴散らしていく。身近なところからいろんなものが消えていき、そこにあったことも忘れ、そこにいた自分のことも思い出せない。きっと今の時間をそのまま変わらずに残したいのだろう。ますます年をとった。着ている服も違っている。時間の流れについていけない。何事にも前向きになれないのはホルモンバランスのせいか。まだまだ老いていくのか、いけるのか。これからも無くしていくのか。いつでも戻れるようなくさびがあればいい。

写真は2016年、ジャマ・エル・フナ広場。アフリカの大地は赤い。

2024.4.13

オーバーザサンで、自分にとってのサグラダ・ファミリアは?みたいなテーマがあった。2026年に完成すると言われているサグラダ・ファミリア、建築にとりかかって120年だっけ、いつまで経っても完成しないもの、みたいな意味で用いられていた。

完成がないと思われていたもの、みたいな意味でも使われていた。スーさんは真っ先にダイエットを挙げていて、ダイエットとか筋トレとか勉強なんかは出てきやすいかもしれない。体重や体脂肪率とか資格スコアみたいな明確なゴールも設定しやすい。

ないなー自分にとってのサグラダ・ファミリア。僕はすぐにやめてしまうから、いつまで経っても終わらないことを根気よく続けることができない。すぐにやめてしまうし、すぐにあきらめてしまう。ある意味「失われた時を求めて」読破はサグラダ・ファミリアだったけど、1年と2ヶ月で終わったから規模が小さい。現在も手元に残っているものではない。

投資は完成を見ないサグラダ・ファミリアかもしれない。今後少なくとも15年は続けないといけない。基本はオルカン一本だけど、方針もある程度メンテしていく必要があるだろう。

写真は2016年、シャウエン。

2024.4.12

こうやって人はみるみるうちに齢をとっていくんだな。うらしまたろうはみんなの現実で起こっている出来事だよ!人生をゆったり過ごしたければ、あまりやることを抱えないことだなあ。できる限り手短かに過ごしたければ、予定を入れまくるのがいいと思います。僕はどちらかというと、散らばるものを整理して一つにまとめたい。落ち着いて穏やかに過ごしたい。今を、日々の事象一つ一つを見据えたい。ただなんとなく漫然と生きていると、実感が伴わない。

写真は2015年、ノバフタ。ポーランドの人はそんなに大っきくなかった印象。

2024.4.8

ご近所の人に教えてもらって、久しぶりにfacebookグループに入った。facebookはシニアの間ではまだまだ活発な様子だ。facebookをまともに使うことそのものが久々で、懐かしい感じだった。こういう広い範囲でユーザー数が多くアクティブなサービスって、facebook以降はなんだかんだあまりないなー。真の意味でソーシャルなサービスって、facebookの他になかったんじゃないか。

Twitterは複数アカウントが当たり前で、人格は架空のもの。利用の仕方も基本は文字を飛ばすだけ。実在する具体的な個人の人格や、社会とはあまり紐づいておらず、発言が独り歩きする。InstagramもYouTubeも、コンテンツを投下することが目的で、個人と社会がネットワークを通じて繋がるというよりは、娯楽や商業目的のエンタメツール。TikTokもそう。

写真は2015年、クラクフ郊外。団地。

2024.4.2

写真周りの話。ナン・ゴールディンのドキュメンタリー映画が公開された。やや気になるけど、こういうドキュメンタリー映画みたいなのは配信に入らないことが多くて、映画館で見ておくべきなのか。どうだろう、テーマに興味を持てるかどうか。「美と殺戮のすべて」という映画。

例えば、ヴィヴィアン・マイヤーのドキュメンタリー映画もあったみたいで、今は見る手段がない。他にも「フォトグラファーズ・イン・ニューヨーク」という映画もあった。これも今見る手段はない。

写真は2022年、鴨川。これは夏ですね。

2024.3.31

久しぶりにネットで旅行記を見た。20代後半の男性、会社員をやりながら投資で資産を増やして1000万以上になり、仕事をやめて1年ほど海外を行ったり来たりしていたみたいだ。去年にまた就職したようで、そこから更新が止まっている。

僕が見たのはベトナムのサパというところを訪れている旅行記だった。ディエンビエンフーからバスで9時間。こういうなんとなしの行き先を渡り歩くような旅行は全然してないなー。いや、でもグラナダからバスでコルドバ行って一泊してまたバスに乗ってジブラルタルまで行って船でタンジェに渡ったのは似たようなもんか。ボスニアのモスタルとかもバスで行ったけど、あそこは2泊もしなくてよかったかなあ。

写真は2022年、京都。夏でもみんな当たり前のようにマスクをしている。コロナ禍は遠い日のようだ。最近またよく身近でコロナ感染の知らせを聞く。まだ統計はとっているのだろうか。

2024.3.30

急に暖かくなって、急に人出が増した、そうだ。まだ街中に出ていないから、本領は見届けていない。でも密かに実感している。暖かくなったのもそうだけど、連日雨だったおかげで閑散としていた。その反動かもしれない。

家の中はまだまだ寒いけれど、外はもう日中は半袖でもいいような気がする。ついこないだまで雪が降っていたのに、どういう季節の移り変わりだろう。間のジャケットを着る時期がない。スウェーデンに行ったとき、道行く人々は夏でもダウンを着ていた。でも日中日差しがあるところは暑かった。一日のうち昼と夜で、日向と日陰で季節が違った。それに比べたらまだましか。

写真は2022年、サムイ島。ビーチリゾートです。ビーチリゾートの過ごし方をまだよくわかっていない。

2024.3.29

3月も終わりだ。毎日をどうやって過ごせばいいかわからないまま、ただ過ぎ去っていくのを見過ごしている。このまま100年ぐらい経ちそう。

近所に銭湯があって、行こうと思いつつ行ってない。この銭湯のハードルってなんなんだろうな。近いし高いわけでもないから、実質的なハードルはない。何か心理的なハードルがある。わざわざ風呂に入りに行って帰ってくるのがめんどくさいのだろう。ただの出不精。人に会うのが怖いのかもしれない。大阪に住んでいたとき、ときどき近くの銭湯に行ったけど客が全然いなかった。そのときはそんなに気後れしなかった。

写真は2022年、バンコク。入らなかったけど Teens of Thailand というバーの前。このへんにはバーがいっぱいある。

2024.3.26

思いついたことは思いついたときにやらないと、後ではもうやる気がしない。だから僕はアイデアのストックみたいなことができない。衝動的な「ああしたい、こうしたい」はまさにその瞬間だけに起こっているできごとで、次の瞬間にはもう冷めている。

つまり自分は思いつきでしか行動できない人間で、楽しかったことも次の瞬間にはつまらなくなっていて、かといって無限になにか思いつくわけではなく、思い立ったが吉日というのは僕の場合吉日かどうかよりも、思い立ってやらなければそれで終了、吉も凶も二度と来なくなる。

写真は2016年、アンダルシア。2016年の写真がやたら多いのは、その時期に集中して旅行していたため。

2024.3.22

写真は2016年、アンダルシア。コルドバかな、そのへん。スペインは気軽な観光とかで行きたい。広いし行くところいっぱいあると思う。カタルーニャも行ったことない。今のところ候補地は映画で見たサン・セバスティアン。サン・セバスティアンには空港があり、マドリードかバルセロナあたりから乗り継ぐことができる。

2024.3.20

今日また雪が降った。先々週にも降った。寒い。寒すぎる。桜も咲いているというのに。

写真は2022年、バンコク。バンコクは当時まだマスクが主流だった。今はどうなってるんだろう。日本でもまだ高齢者はマスクをつけている。オフでは外していても、仕事中はつけている人も多い。ワクチンを打ち続けている人もたくさんいる印象。インフルエンザも長く流行している。コロナほどではないにしても。