リュックひとつの旅行だった

去年の旅行は一ヶ月弱だったため、LCCに乗る際も預入荷物があった。今回は3泊4日と非常に短い旅行だったから荷物が少ない。30Lのバックパックで旅行した。通常のリュック、いわゆるデイパックと呼ばれるものが15Lサイズで、少し前に流行ったアークテリクスのリュックが22Lサイズ、30Lというと少し大きめ。でもこれぐらいのサイズなら機内に持ち込める。

機内持ち込みだけの旅行は快適だった。LCCは預入荷物が有料だし、手荷物だけならロストバゲージの心配もない。何より飛行機を降りたあと、流れてくる荷物を待たなくていい。リュックだから両手も空くし、重量制限があるため重くもない。

カート付きのスーツケースにも機内持ち込みサイズというのがある。なぜあれにしなかったかというと、持っていないから。あと僕みたいに旅行中全て持ち歩くなら、ガラガラ引っ張らなければならないスーツケースは不便だ。スーツケースでの旅行はタクシーの移動が基本だったり、荷物はホテルに置きっぱなしで手ブラで観光する旅行に限る。

  • リクエストがあった
    • 30Lバックパック
    • 寝袋
    • カメラ+充電器
    • パソコン+充電器
    • Kindle
    • スマートフォン+充電器
    • 着替え
    • その他
  • もっと減らせた
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総額2万以下の格安旅行 to 香港

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先日3泊4日で香港へ行ってきた。ついでにアジアのシリコンバレーと呼ばれる深センにも寄ってきた。香港へはいつか行こうと思っていたところ、片道だけLCCのセールチケットが取れたため、今回やっと行くことにした。それが全体的に結構格安になったので、書き記しておこうと思う。関空ー香港間は飛行機でたった3時間という近さ。新幹線なんかに乗って下手に国内旅行するより早いし安いですよ。

  • 飛行機代が格安
  • 宿泊はタダ
  • 空港から市街地へ格安
  • スマホ通信費が格安
  • 移動費が格安
  • 食費が格安
  • 総額2万以下!
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「ハイファに戻って/太陽の男たち:ガッサーン・カナファーニー」感想・書評

『ハイファに戻って/太陽の男たち』の文庫を買った。今年(2017)の6月に発売されたものだ。これ、なんで文庫化されてんの? 原著が発表されたのは1960年代、日本語版は2009年に単行本が出ている。著者はガッサーン・カナファーニー、この人有名なの?文庫は新刊として街の本屋に置かれ、帯には西加奈子の推薦文が書かれている。すごく違和感を覚える。

というのは、外国の小説って全然文庫化されていなかったりすぐ絶版になっていたりするから。事情は知らないが、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』だって文庫化されていない。ジョン・アップダイクの『ケンタウロス』だって文庫化されていない。他にも翻訳すらされていない、文庫化されていない、絶版になっている著名な本がたくさんある中で、なぜ『ハイファに戻って/太陽の男たち』の文庫化なんだ。そんな人気が高いの?何か事情があるの?経緯がすごく気になる。

ガッサーン・カナファーニーはパレスチナ人のジャーナリスト兼作家、パレスチナ解放闘争の活動家だった。1972年、レバノンのベイルートでイスラエルの諜報機関モサドによって車に爆弾を仕掛けられ、暗殺されている。一方で小説はというと「現代アラビア語文学の傑作」と評価されている。このような経歴の著者だから、読んで幸せな気持ちになる作品ではない。しかし人間生きていれば、とことん悲しい気持ちになったり暗い気持ちになりながら、悲劇について考える時間も必要なはずだ。

ガッサーン・カナファーニー - Wikipedia

  • 現代アラビア語文学が千円以下で所有できる
  • 短編集『ハイファに戻って/太陽の男たち』
    • 『太陽の男たち』
    • 『悲しいオレンジの実る土地』
    • 『路傍の菓子パン』
    • 『盗まれたシャツ』
    • 『彼岸へ』
    • 『戦闘の時』
    • 『ハイファに戻って』
  • パレスチナ問題
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「ヒドゥン・オーサーズ」感想・書評

それでは数が多いので全部紹介できないが、一部引用したりしながら紹介してみる。

「ごめんね、 校舎」 大前粟生

小説?散文?校舎に包帯をぐるぐると巻いていく話。パラパラマンガ見てるみたいだった。

包帯に摑まったその子が、顔をこっちに突き出す。修復途中の窓ガラスにあたってしまう。私たちは慌てて窓を開ける。その子がもう一度顔を突き出す。非常ベルで光った赤い顔がはっきり見える。苦笑いしてる。

「どうぶつにかがみをみせてわらう」 みみやさきちがこ

なんか頭のなかで浮かんだ言葉を片っ端から書き並べたような文章。

けど、 ドンキに行ったこと二回くらいしかない、のに、これ歌えるのってすごくない、この歌のひろまりぐあいすごくない、この歌、作詞作曲したひとすごくないですか、

「二十一世紀の作者不明」 大滝瓶太

短編小説。クローン人間の一生みたいな話。寝ている間に夢を見て、夢であることを自覚できることもあるんだったら、意識的に夢を見ることができる人がいてもおかしくない。20歳のときにできた子供と50歳のときにできた子供へ遺伝する情報に30年間分の差があるとしたら、記憶の遺伝があってもおかしくないよなーと思った。

実体を持たない集団が語る声を、実体を持つ個はその耳でもって聞くことができるのか。

実と虚のふたつの空間を隔てるものがボリスの認識にはなかったといえる。

「マジのきらめき」 斎藤見咲子

歌集。ヒドゥン・オーサーズ作品群の中で一番好きかもしれない。それは多分僕が若々しいものと都市の雰囲気を好む傾向があるからだろう。状況描写と心象の組み合わせが好きです。

明らかに異様な音を立てていた間違ったとこ開けようとして

「お昼時、 睡眠薬」 ノリ・ケンゾウ

統合失調症の人の頭の中を文章でつづったらこんな感じになるんじゃないか。いろんな意識が溶け合って混ざりだしてはっきりしない。

ねえ、私はスーパーのこと、これからマーケットと言うようにしたいんだけど。と 試しに今の夫に相談してみると、スキニシタラ、と言われた。

「聖戦譜」 伴名練

高校の文芸部の部誌『北陵』第100号発刊記念の冒頭挨拶文が延々と続く。最初はすごく笑っていたけれど話がどんどん未知なる方向へ展開していってわけわからなくなったと思ったらまとまってくる。

つまりは鳴海高校文芸部の初代部長はそもそも人類と出自を異にしているのではないか、という議論が持ち上がったのも無理からぬことです。

「つむじ圧」 杉山モナミ

歌集。とにかく女の人っぽい。持ってくる題材や目線、見る対象。

あのひとは光に乗ってしまうのではないかというほど咳していました

「引力」 相川英輔

ヒドゥン・オーサーズの中で一二を争うほど一般人が読める文体で書かれている短編小説。近所で餌をやっていた猫が死んで埋めに行く話。

少なくともここであれば穏やかに眠ってもらえそうだ。自分が死んだときもここに埋めてほしいとさえ感じた。

本当は全部読んだし好きな部分や感想もいっぱいあるんだけど長くなるしめんどくさいんでやめます。ぜんぜん違うぞって苦情は甘んじていただきます。

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話が合わなくて困る

僕ぐらいの年齢の人がする話は大体が「結婚」「子供」「仕事」が第一であり、そういう人を目の前にすると話すことがない。「結婚」にも「子供」にも「仕事」にも縁がないからそういう話をされると「あーそうですか」と聞き流すしかなくなる。マジどうでもいいと思いながら(ブログでもそういう話題を扱っているものはまず読まないが、逆に「結婚」「子供」「仕事」に疑問を呈している話題なら読んでコメントすることも多い)。

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はてな題詠「短歌の目」2017年6月

短歌の目6月のお題です - はてな題詠「短歌の目」

題詠 5首

1.クリーム

心臓のリズムに沿った足音をクリーム色のシャツがむかえた

2.溝

昨日から右手に残る感触が溝の底よりあふれでている

3.万緑

どこかしらつづく万緑どこまでも見上げてもそう、深く吸い込む

4.雨

雨の味、あまくてからい通り雨。なまぐさい飴、一部噛み切る

5.きみ

ふところのきみのかたさをもてあそぶ 明日の朝まで十年後まで

テーマ「衣服」

袖通すこの日のためにあつらえた素材が肌をしっかり刻む

誰もが生きる意味を持てる世界へ、ザッカーバーグのハーバード卒業スピーチ

facebookを立ち上げたマーク・ザッカーバーグの、ハーバード卒業スピーチを今更ながら聞いた。イノベーターによる卒業スピーチと聞いて真っ先に思い浮かぶのが、スティーヴ・ジョブズのスタンフォード大学スピーチ。同じIT起業家ということもあり、どうしてもマーク・ザッカーバーグのスピーチと比較してしまう。スティーヴ・ジョブズのスピーチ内容はあまり覚えていないけれど、個人の人生の歩み方について、自身の経験を踏まえ語ったような内容だった。今回のマーク・ザッカーバーグのスピーチも大学卒業後の生き方を説く内容ではあるんだけど、個人の生き方というよりはむしろ、社会に対する関わり方みたいな話だった。スピーチの内容について、ところどころ噛み砕いていきたい。

  • ミレニアル・ジェネレーション
  • ミレニアル世代の挑戦
  • 世の中を良くする大きなこと
  • 社会システムの再構築
  • ローカルをグローバルに
  • ザッカーバーグは問いかける
  • 私たちに何ができるか
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今まで見たベトナム戦争関連映画

現代を生きる人にとってソ連とか冷戦は、もうナチス・ドイツ並に歴史上の項目だろう。だからベトナム戦争にも馴染みがないと思う。僕自身もベトナム戦争の時代には生まれていなかったし、そもそも日本人だから戦争の実感はない。

狭義のベトナム戦争は1964年から1973年の間に行われていた。ヒッピームーブメントや公民権運動、アポロ11号の時代と重なる。約10年と長い戦争なんだけど、広義のベトナム戦争はもっと長い。ただしハリウッド映画におけるベトナム戦争は、アメリカが関わった狭義のベトナム戦争をアメリカ人の視点で描いている。これが本当のベトナム戦争かというと、アメリカ人から見れば確かにそうなのだろう。いわゆる内輪ネタが多い。

ベトナム戦争ってのは後にも先にもない、いわゆる「アメリカが負けた戦争」。実際はベトナムの国内内戦であり南ベトナムの負けであってアメリカの負けではないんだけど、いろんな意味で「アメリカが負けた」ことに変わりはない。アメリカはこの戦争に関与することで多くの米兵とお金を失い、被害を拡大するだけで何も勝ち得られなかった。

アメリカの敗戦というのは今から考えるとなかなか信じ難いことで、しかもその相手国は東南アジアの弱小国家、北ベトナム。かつて日本がアメリカに戦争仕掛けたこと以上に驚きだ。そんなベトナム戦争を映画から振り返る。というわけで以下は僕の見たベトナム戦争関連映画と簡単な紹介。★の数は評価ではなく見た回数。

  • 地獄の黙示録(1979)★
  • フルメタル・ジャケット(1987)★★★
  • ハンバーガー・ヒル(1987)★
  • ディア・ハンター(1978)★★
  • ランボー(1982)★★★
  • プラトーン(1986)★★
  • 7月4日に生まれて(1989)★
  • フォレスト・ガンプ(1994)★★
  • グッドモーニング・ベトナム(1987)★★
  • 見てない映画
  • ベトナム視点の映画ってあるのか?
  • 余談:戦争がなぜ起こるのか
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生活のメモ

自分のことしか見えていないとか、周りのことまで考えているとか、そういった意識の距離に差がある。周りの人、外の世界、世の中を中心に生きている人は意識の距離が広い。遠くまで範囲に含まれており、自分の一部となっている。生きる世界が広く、構成要員も多く、情報量も時間の流れも早い。キャパシティとも言える。その分個々の要素は薄まる。あなたの意識はどこまで広がっているだろうか。家庭内、親戚、地域、会社、学校、もしくはなんらかのグループ、国家かもしれない。自分の意識はどの距離まで作用しているかというと、ちょうど自分の皮膚の内側ぐらい。自分の見ている範囲はすごく狭くて、ローカルでマイナーだ。なるべくなら外は見たくない。自分の内側以外のことに意識を煩わされたくない。

昔はよく映画の雑誌とかパンフレットとか読んでいたなー。20年以上前

子供の頃はよく映画館に行っていた。名作から駄作まで、数多くの映画を母と一緒に見ていた。そして毎回パンフレットを買っていた。自宅にはレトロ映画のパンフレットがたくさんあったはずだ。引っ越したときに全部捨ててしまった。

パンフレットは映画を見る前や映画を見た後に、隅から隅まで読んでいた。映画は2時間経ってしまうともうビデオになるまで見ることができないため、パンフレットだけが唯一手元に残る映画の名残りだった。映画好きだったなあ。80年代のハリウッドエンタメ映画ばかり見ていた。小学生になり、友達と遊ぶようになってから映画館に行かなくなった。映画を見る小学生なんて周りには一人もいなかったから。

マンブルコアってのが2010年に流行ってたんだね

正確にはゼロ年代になるのか、映画のトレンドにマンブルコアってのがあったらしい。先日見た映画「20センチュリーウーマン」に出ていたグレタ・ガーウィグがマンブルコアで有名だったらしい。

遠い昔に書いたことからまだ先に進んでいない

遠い昔に書いたっていうのは2010年に書いた増田。それから7年経つが脱していない。

目先の物事などではなく

ずっと答えを探している気がする

比喩で書けたらよい

根源的な話

これ、うまく言葉で表せないんだけど、生涯の目的みたいなもの。最近あまり意識していなくて見失いがちだった。僕の生涯の目的は幸せになることでも金持ちになることでも承認を得ることでも安心することでも安定することでも子孫を残すことでもなく、答えを見つけること。欲を言えば見つけてはっきりとした形にすること。

答えって一体なんなのか、それは見つかっていないからわからない。それを真理とか「確かなるもの」とか勝手に呼んでいた。厨二病みたいだ。悟りと呼ぶ人もいるかもしれない。愛と呼ぶ人もいるかもしれない。物や芸術や別の概念に見出す人もいるかもしれない。見つけると言うと、既に存在するものを探し当てるみたいで「そんなものねーよ」って言われたら終わりなんだけど、そうじゃなくて少しずつ形作っていくものなのかもしれない。なにせその片鱗さえ見えない。どう探せばいいのかもわからない。それが答えだということしかわかっていない。全ての先に辿り着く答え。僕が夏目漱石の「行人」を好きなのも、似たようなことが書かれていたから。

夢幻の如くなり

寝ている間に考えていたことを全部思い出せたらいいのに

ときどき夢の中でその答えに辿り着くヒントを見ているような気がする。でも朝目が覚めると何も覚えていない。

「真理は見つかったかい?」とピーターに訊かれたのを思い出した。

極稀にこういう話を人にすることがあって、たいてい何言ってるのかわからないって反応をされる。カナダにいたとき、カナダ人の英語教師であるピーターにどんな経緯か忘れたけど「真理を探しているんだ」みたいなことを言ったことがあって、それから「真理は見つかったかい?」と聞かれることがあった。バカにされているわけではなく、ピーターは京都に住んでいたこともあり日本通だったから、よくわからないことを気兼ねなく話せた。日本語は僕の英語と同じぐらいひどかったが。

とにかく、金とか人間関係とか日常の些末な出来事に煩わされて、現実の生活というどうでもいい副次的なことばかりにとらわれている。最近はずっと、生きる上での本意を見失っている。

自分の答えは自分のものでしかない。多分、他の人にとっては無意味で、「秘密の金魚」のようなもの。

『秘密の金魚』っていうすごい短編集があるよ。その中で一番いいのは、「秘密の金魚」っていう奴だ。自分の金魚をどうしても他人に見せたがらない子供のことを書いたものなんだ。どうして人に見せたがらないかというと、自分の金で買ったからだっていうんだな。これには参ったね。

― 『ライ麦畑でつかまえて』