社会のどの位置にいて、どの位置を目指すか

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罪と罰の終盤において、ラスコーリニコフに訪れたその先の救いのようなものはまだ全然見いだせていない。あれは一体何だったのか。慎ましい日常の中にある一時の安らぎみたいなものか。あの本では最初のテーマとして、ナポレオンの話があった。英雄であれば何をやっても許されるのではないか。ラスコーリニコフは自らが許される存在か否かを確かめるため犯行に及び、自滅した。そこには英雄に対する憧れと、現実の自分との差に打ちひしがれる様子があった。こういった罪と罰の解説や粗筋についてはどれ一つとして納得するものがなく、特にリザヴェータについてそんな話はしていないだろうと思うんだけど今回それは置いといて。世の中においては、許されるか許されないか、という一つの基準で分けることができる。受け入れられる人たちがいて、その一方で排斥される人たちがいる。どちら側に属するかは、生まれながら決まっているように感じる。ナポレオンは極端だが、人に許容される要因の一つは、明るさ、社交性になるのだろう。明るい未来と社交性だけで、例え能力が無くても人は受け入れられる。どこでも受け入れられる。明るさと社交性をもってして人とつながり、その輪を広げていくことができる。人に受け入れて欲しければまず、まばゆいばかりの明るさを振り撒き、世界を一つにするぐらいの社交性をもってして人と接してみようではないか。それが生まれながらに持ち合わせなかった偽りの社交性、明るさであったとしても、ある程度は誤魔化せる。そこから先は、いかに自分を隠すか。

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