インターネッツに呼び起こされた恐怖感

 「ネットってこええ、というか人間って怖いな」という、
根本的な、原点回帰とでも言うような、うっすらとした
恐怖感に包まれ、しばし呆然としていた。

 「ネットは怖い」という認識は、我々ネット歴5年以上という
当時まだハイテクの最先端で、オタ呼ばわりされるどころか、
ネットヲッチャーであることがステイタスになってた痛い
人間からすれば、当たり前どころか逆にもう薄れている認識で、
ネットが通俗的になって、つまらなくなって、当時は誰もが
恐れていた、「ハックとかクラックとかよく分からないけど
何となく怖かった」ことさえ忘れ去られるほど、
大衆に大きく飲み込まれてしまっていた。

 今日感じた恐怖というのはそういうハックラネタではない
けれど、ネットに端を発してリアルにまで漕ぎ着けたものの、
真相はハッキリしないという如何にもネット的な
いかがわしさに満ち溢れたものであった。
事自体は半年前に終わった話なんだけど今更触れてみて、
彼を知ってから3年ぐらい、影ながら傾倒してた者としては
衝撃と、それに付随する恐怖が、世の中、人とかそいうもの
全体へと広がった。


 わからなさに尽きる。彼の言動と、第三者の検証を見る限り、
数々の点で明らかに矛盾があり、それをどう見るべきなのか。
彼なりのパフォーマンスとか2ch的なネタとしてとらえた場合、
そんなの別に取るに足らない。彼がいくら事実に反することを
言ってようが暴走してようが、それらは極めて2ch的であり、
普通のことである。それを真に受けて検証とかして、
「それ嘘じゃん」などと突き詰めて「へぇ、で?」
という感じになる。

 ただ、彼のその虚言・暴走はネットにとどまらなかった。
有名なエピソードとして、「10億近い借金を返すどころか
100億単位稼いだ」ってのがある。その話がネットで知れ渡った
ときは、いかにも胡散臭かったが彼自身にもそれを
信じさせるほどの物言いと態度があり、その後、
雑誌や新聞でのプロフィール欄にも堂々と載ってしまっている。
そこまでされると本当なんだと誰もが信じる。その後、
当時の彼を知る者や、彼の発言、その他検証してみたところ
「どうやら嘘っぽい」ということになった。
具体的には検証のしようがなく、本人も答えないので
謎のままである。真偽は借金を作った会社の社長である
彼の親父か、当事者しか知らない。
ちなみに会社と借金については公的記録かなんかにあるので
実在するそうだ。

 そのエピソードについては確かめようがないとしても、
その他にも彼がリアルで明らかに虚言をかましていることが、
幾多の「現実において彼を知る人」からの発言で明らかになった
(実際は極めて明らからしいだけで、確定できる段階ではない)。

 ネット上での虚言暴走は、ありきたりのことで済む。
けれど、それが現実においてネット上と同じく行われていれば、
それはかなり笑える事態である。その結果彼が統合失調症説まで出た。

 私が何に恐怖を感じたかというと、
彼の暴露話が進行している最中もその暴露している本人の
人格すら疑われていて、どの情報も嘘か本当か分からなくて、
それがネット内にとどまらず、現実へと反映して蔓延しているというこの現状。
 例えば、彼の一連の言動が虚言だったと仮定すると、
では真実の彼というのは一体どこにいるのか?
虚言と妄想に作り上げられたカリスマ資産家の彼が、
写真付きで雑誌・新聞にまで載って、それが「彼ではない」
「嘘だった」とすると、彼自身を本当に知り得るのは、
彼を産んだ親か、あるいは彼とともに疑惑がある時期を
過ごした友人か、そのあたりしかない。
その人たちに真実を追究することは不可能だろう。

 ネットと、メディアが取り巻く社会において、
「本当の彼」というものは存在しなくなった。
今でもネット上で活動している「カリスマ資産家だった彼」は
虚像であり、メディアに若手資産家として紹介される彼も
虚像であり、先日、本を執筆して売れて増刷されている彼も
虚像であることになる。実体が無い。

 そもそも、我々に実体があるのだろうか。
私は、後々思い起こしてみると、
よくその場で口から出任せを言ってしまう。
思いついたことをその場で口にし、
その時点では私自身その内容が正しいと疑わなかったけれど、
後から、時にはほんの数秒後それが間違っていたことに気づいて
言い繕うことがある。その言い繕いさえ真偽は疑わしい。
 それがもし、自分以外の他人の中でも起こっているとしたら、
我々の認識は虚像をつかみまくっていることになる。
認識、ただでさえ誤解しやすい認識が、たとえば彼のように
経歴詐称といったデータにまで発展していたとすると、
他人の実体を掴むことなどは不可能に等しい。

 自分を客観的に見た場合、私は今無職で
アルバイトをしていると他人には言ってあるけれど、
それがどこまで真実味を増すかは「如何に情報を提供するか」
に尽きる。無職の実状やら一人暮らしの生活感を
リアルに語れば、他人からすればそれは疑う余地が無くなる。
そこで、実は私が結婚していて子供がいて
妻が主に働いているから、私自身は無職でコンビニの
アルバイトをしているだけで済む、という情報が
どっからか流れてきたとして、実に信憑性のある
伝わり方をすると、そっちを信じるかもしれない。
少なくとも私のナマの生活に触れたことのない人なら
信じる余地はあるだろう。
そこで、俺の学生証なんかが発見されて
〜大学何回生なんて書かれていたら、
上記の2つはことごとく嘘っぽくなる。
しまいにはその学生証が本物なのか、
ていうかこいつ本当は何歳なの?
などと事実を確定できない情報が蔓延すればするほど、
私の虚像は薄くふくらみ、実体は縮こまってゆく。
誰かが直接私自身に問いただしてみたところで、
もうその時点では誰が何を言おうが何も信じないだろう。
実際には個人にそこまで関心が向く事自体稀だが。

 他人、いやむしろ、自分自身、自分の今思うことは
本当なのだろうか。虚言と妄想、それと現実の区別なんて、

 他人の言葉は信じなければいい、信じるにしても
薄い付き合いであれば真偽は別として「そういうこと」
にしておいて、それが嘘であれ真実であれ、ある意味
適当に、合わせて付き合っておけば良いわけだ。
もしそれが嘘と知ったとき、その親密度によって
それ相応のショックは受けるだろうが、所詮は他人である。
信じた自分も悪い。

 それが自分事だと話はまたややこしくなる。
自分の感性、感覚、考え、理屈、その他自分自身を
どれだけ信用することが出来るか?その根拠は?
真実を真実と確証付けることが出来なければ
どんな有力な情報を得たところで嘘の堂々巡りと
なんら変わりは無い。そして、確証づける
ということはかなり難しい。ほとんどが不可能。

 こんなものを読んでそんなことを感じたけど
http://fusoshatokiri.seesaa.net/category/429395.html
知らない人が見てもわけわかんないと思う。

 我々は全ての事象が嘘かどうかを疑いつつ、
心のどこかで何%かは信じつつ、やり過ごしはすれど
あるいは、可能な限り検証したところで、
決して真実などという幻想に到達することは出来ない。
この人はいったいどういう人なのか、
自分はいったいどういう人間なのか、
その実体には永遠にお目にかかることが出来ない。