自由とか

自由なんかについて考えてしまう。人間として生きている時点であらゆることに制約されていて、それは本人意思なんかではなく、それどころか、本人意思のつもりで行っていた一連の考えや行動が全て本能に基づいた、いわば生まれ持ったプログラムに沿って働いていただけということがわかると、やりきれない気持ちになる。
例えば、ある女の子を好きになって付き合いたいと思う、あわよくば体を重ね、そのうち結婚を思う、などというのは全て決まりきったことなんだなあ。相手を選ぶ時点で、まず本能が選ぶ。種の保存に的確な相手を「感じがいい」と感じさせ、欲をかき立て、種の育成を良好にするために家庭を持たせようとする。そこに個人の意思なんてものは関係ない。私自身がいくら「この子とは運命の巡り会いで、決して不純な気持ちはなく〜」などと何を考えようが死ぬ思いで真剣に悩もうが、心の底から涙を流そうが全くもって無関係で、それらは全て「生物の現象」としての理論や「岡惚れ」といった言葉で「一例」として説明され、実態はただ内なる命令に従って、それも何も気づかないでテキパキと作業をこなしているに過ぎない。そこに「私」はないし「個」も無い。「意思」も無ければ「感情」さえもない。ある動物のある過程、それも他の動物と全く変わりのない、区別の出来ない一連の過程が流れているだけ。作業機械のように。哀れな人。
真の自由、自分の意志を貫く事は、本能から逃れることだろう。仏門に入るなど、非動物的な事に一生を費やす。そしてそれはとても難しい。