まだ会社を辞めていない理由

土曜日の朝、仕事をしながらこれを書いている。

僕は本当は働きたくない。
学生の頃から漠然とそう思っていた。高校の頃から投資の本を読んだり、大学は経済学部へ入ったり、なんとか不労所得で生活できないかと夢を見たりしていた。
どの程度本気で取り組んだかと言えば、たいしたことないけれど、なんとなくわかったことは、投資や不労所得で生きようとするには普通に働く以上の勉強をして、日常生活では持ち得ない資本を投じ、管理し、リスクを取り、さらにセンスが要求される。普通に働くより大変でつらくて難しそう、という事だった。
  

学生の頃

なるべく働きたくはなかったが、高校の頃も大学の頃もお金が無くて、アルバイトをせざるを得なかった。アルバイトは、必要最低限のお金が稼げる楽な仕事を選ぼうとした。
僕が学生時代を過ごした京都は、学生にあふれかえっており供給過多、アルバイトの求人は取り合いだった。「給料は少ないけど労働時間も少なくて楽な仕事」を探すのはとても大変で、見つけたところで他と比べて取り柄の無い自分が割り込むのは無理だった。
しかたなく普通のアルバイトをした。それでも必要最低限に留めた。月のバイト代は5万円、そのうち1万円は車の免許のローン、1万円は移動手段だったバイクのローン、もう1万円を携帯やネットのインフラに当て、手元に残ったのは2万円。実家暮らしだったので生活費は不要だったが、月々の残り2万円で、大学生活を送っていた。買い物とか、交際費とか、昼食とか、ガソリン代とかそのへんだろうか。服なんかはほとんど買えなかった覚えがある。娯楽に費やせるお金も全然無かったら、レンタルDVDを見たりブックオフで本を買ったりよくしていた覚えがある。ローン以外の借金はしなかったが、手残りは無かった。
  

就職活動

大学も終盤になり、就職活動の時期になると憂鬱だった。大学の在学期間というのは、特に僕のような底辺文型大学の人間にとっては人生の夏休みであって、お金は無くても暇を持て余し、それなりに謳歌していた。
何よりも、働きたくなかったし、働くこと、就職することについて取り組むことが億劫で、さらに前向きに見えるように取り組まなければいけないことがとてもつらかった。それは紛れもない嘘だったから。
当時、といっても5年以上前だけど、リーマンショック前で今ほどの就職氷河期ではなかったが、逆にそれが、「働いて当然、就職できない者は負け組」という空気を硬く維持していた。今はむしろ、就職なんてどうせ一部しか出来ないんだからそれ以外の道を模索しようみたいな空気が出来上がっているように見受けられる。今僕が卒業していたら、確実に就職活動はしなかっただろう。いわゆる一般企業にエントリーして面接を受けてという就職活動は。だって無駄だから。
しかし当時はそんな空気も無く、みんなシュウカツまっしぐらで、大学は内定率を競い合い、生存のためもあって自分が就職しない以外の道も想像し難く、雇用も今よりはあったから、嫌々ながら、自分を誤魔化しながらも就職した。幸か不幸かは別として。
働き出した当時は今まで手にしたこと無い給料をもらい、気分も高揚したが、すぐに虚しくなった。
会社へ入って、実際に働き出してから僕の働きたくないという気持ちは、より正確に、具体的に、確固たるものとなってきた。
  

なぜ働きたくないのか

なぜ。人間は本来的に、本能的に働きたくないものだと思う。働きたいという人がいれば、働くことそのものを望んでいるわけではなくて、ただお金が欲しいだけだろう。自己実現とか、人との交流とか、労働以外でいくらでも可能で、労働以外で行う方が楽しくて有意義だろう。働くことそのものが好きな人というのは少ないと思う。そういう人はそれこそ無給で働いている。スティーブジョブズとか。ボランティアとか。起業家のように、夢を実現するとか考えている人は、そもそもそれが労働だという意識は無いだろう。
働きたくないというのは実に自然なことで、何故なんて問うまでもない。
  

なにが嫌なのか

働く上で嫌なことはありすぎて書ききれない。他人に対しても自分に対しても嘘をつくのが嫌だし、それで利益を得るのも嫌だし、古い社会体制とか、企業体制とか、老人との関わりとか嫌なことはありすぎる。価値観が合わないのはしかたがない。ただ自分に合わないものに合わせるというのはとても苦しい。人と争うのも競うのも嫌だ。
  

どうしたいのか

僕の働きたくないという気持ちは謙虚な方だと思う。働きたくないのなら、働く代わりに何がしたいのか。働きたくない、という人の多くは、遊びたい、と答えるのではないだろうか。遊ぶ、消費する、働く代わりに毎日遊んで暮らしたい、そう思うのが、働きたくない、という一般的な意味のように思える。
僕は違う。遊びたくなんかない。僕はそういう都合のいいことは望んでいない。消費活動にもあまり興味がない。遊ぶわけでもなくただ働かずに生きていけたらいい。何もしたくない。そう願う。
僕が会社を辞めたい理由は、働かずに遊びたいといった非現実的な願望ではなく、ましてや転職したいとかキャリアアップとか起業するとか、そんな前向きなものでもない。ただ、働きたくない。
  

なぜ辞めないのか

実際は何もせずにいると即死に繋がるので、その日暮らしにしても何かしなければならない。日銭を稼ぐ方法とか、生存の手段を見つけなければいけない。しかし、働き口を探すなら、会社を辞める意味はない。結局働くことになるなら、今より確実に条件が悪いだろう。振り出しに戻る。
そうやって、辞めたいけれど辞めたあとの生存手段なりを見出せないまま、ずるずると時間だけが過ぎている。
  

今後について

こんなスタンスでずっと仕事をしているのだから、そのうち病気になるかも知れないし、自殺するかもしれない。クビになるかも知れない。また、会社が潰れるかもしれない。先のことはわからない。何がしたいのかな。俺は。勉強でも何でも嫌いだったから、どんな口実であれ、何かに本気で取り組める人はそのテンションがうらやましく思う。
  
  

補足

id:phaさんとか、働かないその道を見出した人はすごく憧れるわけで、僕はギークでもなければ人徳もないからamazon:ニートの歩き方を読んだところでその道は歩めないだろうなあと感じる。そもそも僕はwebのテクニカルな面に惹かれたというより、文化的な側面を常に追いかけていただけなので、Webサービスやらアプリやらなんやらの数式と記号にまみれたプログラミングの世界はそもそも無理がある。
phaさんも厳密には働いていることがよく言われているし、実際嫌なこと、だるいこと、やりたくないことを色々やりながらも生活を維持しているだろう。それでも、脱労働者が出来た人というのはphaさんに限らず、とてもうらやましくて魅力的に思える。
  
  
つくづく景気というのは悪夢だなあと思う。景気さえ良くなれば、何もかもうまくいく、と思っている人がどれだけ多いだろうか。でも本当にそうだから困る。個人や一企業の努力、才能、そういった我々の要素を全てないがしろにして状況を作ってしまう景気。景気は悪夢だ。本当に大切なことはその先にあるのに、ないがしろにされる。
特に、景気だけが良かった時代を生きた人たちには、この景気さえ良くなれば、の意識が強い。


社畜、という言葉が広く使われる一方で、就活戦線は混迷を極めている状況が続いております。一部の望まれる人材以外は新卒も既卒も中途も同じで、内にいる人は辞めたいのに、外にいる人は入れないという異常な状況。異常なのか。需給バランスで考えると、人は足りていない、しかし利益が上がらない、予算も無い、人材の潜在的需要はあるにもかかわらず、利益を出せないところにコストはかけられない。さらにコストを削減するため人を切っている状態。かと言って、人の供給も決して多くはない。なんせ少子化、極端な若年人口の逓減。労働人口の減少。しかし供給が少ないにもかかわらず、それ以上に需要がないから、供給側は足元を見られ、悪い条件のものとでの契約が成立する。人は足りていないのに、人を取らない、それどころか切る、利益が上がらないから、コストをかけられない、少ない人数にしわ寄せが行き、労働過剰に陥る。
だから、内にいる人は辞めたいのに、外にいる人は入れない、という状況が生まれる。
内にいる人は、辞めたくても実際には辞めることが出来ない。辞めると再び内側へ入ることが出来ない。仕事がないという状態は、一般的には、生存に関わる。だから、辞めるよりはまし、になる。
一般論はそんなところかなあと想像できる。

後日:俺は会社を辞めるぞ