「考える生き方」感想

今頃になってしまった。「考える生き方」の感想。

著者の人には申し訳ないけれど、この本はとりあえず、“finalventファンブック”という位置づけから始まってしまう。

日頃から極東ブログ、メールマガジン、cakesなどを読んできた人が真っ先に手に取るだろう。
そして彼ら(僕ら)は衝撃を受ける。「うわ、finalventさんってこんな人なんだ!」と。普段のイメージからすると、意外なんだ。本当に。内容が。
僕はfinalvent氏を、世捨て人の仙人のようなイメージで見ていた。漢詩なんかに出てくる仙人だ。極東ブログにおいて、世界情勢を、英語を訳しながら、自らの考えを含めつつも淡々と解説する。そういうイメージと、現実の暮らしは真逆だった。 

著者は自身の人生を「空っぽ」と表現している。しかしその中身といえば驚きの連続で、それが最後まで続く。
「世間的な有名人にはならなかった」という意味か、「一財を築くことはなかった」という意味か、もしくは「何かを成し遂げ損なった」という意味なのか、自らを、「55歳にしてこの先の見込みもなくなった失敗者」であると言う著者。

それでも考えながら生きてきた、なんとかなった時も、ならない時もあったけど、考えて生きることで、納得したり整理をつけながらここまで生きてこれましたよ、考える生き方とはどういうものか、という風に、この「考える生き方」記されている。
正直、これが空っぽな人生だったら自分の人生なんてゴミ屑じゃないか…と思った人も多いはず。 

さて、finalventファンよる「考える生き方」紀行1週目は、どうしてもこういう形で終わってしまうんだ。驚きの1週目。
そして2週目。ここからがファンじゃない一般読者と同じ目線で内容が頭に入ってくる。
各章では、著者の人生経験に基づき、各シーンで考えたことやそのプロセスが書かれており、先ほど書いたように1週目ではその内容が面白くて考えるところまで行かない。2週目であれば、いろいろと考える事が出てくる。 

例えば、働くこと、市民であるということの意味とか。
市民というのはヨーロッパの概念で、シティズンシップ、市民革命とかの市民にあたる。町を構成する構成員が、その共同体の理念や秩序を維持するために寄与する義務を果たす。とか、そういう意味だったと思う。それは特に、利益よりも正当性、正しさを追求するという場面にて顕著に現れる。正しさというのは、行動規範としての正しさであり、僕はそのあたり調べ切れていないので、なんとも言い難い。今後の課題。

著者が言うには、ざっくり言うと、市民として社会に寄与する事は、お金を稼ぐ事よりも大切ですよ、道義に反してお金持ちになっても、それは市民の義務を果たしているとは言えず、あまり意味のないことですよ、という内容。ざっくり過ぎるか。 

他には、書評にもよく挙がっているテーマとして、大学教育について。
外国の大学ではリベラルアーツの教育が行われており、リベラルアーツとはどういうものか、というのが解説されている。
大学教育とは本来どういうものか、どういう形が理想なのか。
大学は本来、技術や知識を教える場ではなく、科学の体系、筋道をたどって物事を把握する訓練、解決する訓練、応用する訓練を行う場である、と。

そして、本来の大学教育を受けた学士であれば、専門分野を問わず、その方法論、リベラアーツを持ってして、どの分野においても道順を持って体系を把握し、解決し、応用する事が出来る。そういう教育こそが大学教育であり、それを体得する事は知識や技術を得る事よりも尊いことである。という内容。

今求められているような即戦力なんてものは、ひとたび状況が変わると何の役にも立たないもので、あれは専門学校で教えるもんである。大学ではリベラアーツを学びましょう、リベラルアーツを習得した人材こそがどんな場面においても解決策をひねり出し、応用が効き、新しい物事にも正当な目線で対峙できる、とかそんな内容だったと思う。

そのリベラアーツを持ってして、著者が人生の局面にて解決してきた例が、この本にも散りばめられている。 

本を読んだのは発売当時で、今その本を手元に置きながらも参照せずにこの感想を書いている。記憶違いや間違いがあれば、ごめんなさい。感想というよりは本の紹介になってしまった。

他の書評兼対談では以下などが面白かった。 
何のために学ぶのか、何のために考えるのか?飯田泰之×finalvent 

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