諸行無常

僕が会社を辞める事情や、同居人の結婚や、渡英や、なんやらが重なって、今のシェアは来月いっぱいで解散となる。

1年に満たない短い期間だったが、何も問題もなく、終えることができそうだ。可能であれば続けたかったし、向こうに行ったら必然的にまたシェアの生活になる。

そんな矢先、読売新聞の人から取材したいというメールが来た。コンセプト型のシェアが流行っているのではないかということで実態調査らしい。タイミング悪いなあ。ほそぼそとやっていたので取材受けるような内容ではないから関係ないんだけど、もうちょっと早ければという感もある。

いろいろな事が始まっては終わる。

 僕が1年ぐらい悩んでいた頭皮湿疹は薬をつけたら一発で治り、今や思い出す事もない。同じく、1年ぐらい気にしていた虫歯の穴も、歯医者で1日で治療されて今は舌の行き場もない。今となっては、なんて些細なことだったんだろう。

僕の周りでは、次々に結婚が進み、出産も相次いでいる。昔の人たちとは違う、昔の関係とは違う人たちがそこにいる。この関係性は今後も変化し続ける。さらに希薄化してゆき、連絡を取ることもなくなっていくだろう。

昔親しかった人を時々思い出す。コンビニのアルバイトをしていた時、気が合ってよく一緒に遊んだ人はどうしているだろうか。僕は関係性を断ち切る癖があるので、連絡先もどこに住んでいるのかも知らない。仲違いしたわけではないので、惜しい気もする。Facebookなんかで過去の知り合いを見かけることは多くなったが、テクノロジに疎い人だったのでWebで見かけることは考えられない。そうやってまた一人、人を忘れていく。僕もそうやって、忘れ去られていく。

Webと言えば、僕が旅行を始めた時からずっと聞いていたPodcastの世界一周たびたびニュースは、終わってけっこう経つ。次の同じようなコンテンツを探す気にもなれない。けれど旅行は続けている。たびたびニュースに出ていた人はアウトドアの店を出している。仮にそこへ行ったとして、たびたびニュース聞いてましたよなんて話が出たとして、何を今更、そんなのこともあったっけ、になるだろう。

もう一人の人は喫茶店をやっていた。一度だけ行って話したことがある。そこはもう閉店している。今は別の人達と違うイベントをされているが、僕は名古屋を離れてしまったので行くことがない。時間は流れている。

抗えない変化を恐れる自分と、同じ所にとどまっていられない自分は両立している。変わることを免れることが出来ないから、いっそ断ち切ってしまう。ふらふらしている。

出会いという言葉は好きではない。出会っただけでは何も始まらない。何も起こらない。出会うことには、さして意味は無い。そのようなことを太宰治も言っていた。

物事が先に進むには、ただ出会うだけではなく、そこに意思や意図が必ず働いていると。「ふとしたきっかけ」というのは些細な事であって、何かをどうする、という意思が肝心なのだと。出会いを大切にするのではなく、意思を大切にする。