Last days

そういうタイトルの映画がありました。
ガスヴァンサント監督の映画で、カートコバーンが自殺するまでの最後の日々を、何の説明もなしにふわっと描いた映画です。
ガスヴァンサント監督の映画は好きで、たくさん見ました。エレファント、パラノイドパーク、グッドウィルハンティングもそうたったかな。ミルク、とか、マイプライベートアイダホ、僕が見たのはそれだけ。
 
 
 
それは映画の話で、僕の社会人生活は今まさに最後の日々を迎えております。
 
何者かで食っていけたらそれはいいことだと思うけど、何者かに成りたい、とか、何者かで有りたい、とは思わなかった。自分は自分でしかない。他者から自分を見た時には、何者でもなく、何者であるかわからない状態で有りたい。匿名の、得体の知れない、概念のような。そういう、あるかないかわからない印象を持ってもらうのが僕の願望です。
 
5年超というのは、短くも長い時間であり、何かを知るというには、段階の変化も経ていないため、まだまだ足りないかもしれないけれど、僕はもう十分。
 
 
 
昨日、そんな僕の送別会があって、粛々と進行された。僕個人のためにそんな大層なことをしてくれて、うれしい気持ちと、ありがたい気持ちがある。
 
たくさん来てくれたからどうとか、そういうことはないけれど、そういう催しをやろうと思って、準備をしてくれた二人には、惜別の思いがある。またいつか、別の時代に会うことがあるかもしれない。そのとき僕はイナゴかもしれない。
 
 
 
先日の諸行無常にも書いたけれど、こうやって、僕らの時間は一つ一つピリオドが打たれ、また明日からは全く違った日常か、もしくは、何も変わらない日常が始まっていく。
 
彼らにとって、僕がいた日常は終わった。僕という電気信号は、明日から打たれなくなり、ある特定の刺激がなくなった脳は、そのうちその電気信号の存在を記憶から消し去ってしまう。残しておく必要のない情報として。
 
 
 
でも、僕にとってはこれが日常の延長ではなく、最後の日だから、この最後の日のことは、きっと忘れない。