情欲について

僕は残念ながら人に好かれる人間では無い。人に疎まれる事はあっても、好かれる要素は皆無だから仕様がない。

特に、第一印象が悪いらしい。第一印象というと、顔、体格、声、雰囲気、服装、話し方、態度などだろう。人から好かれる自然に備わったものが無かったとしても、子供の頃から人に好かれる努力なり、訓練を受けるなり、練習をしていれば、それはある程度なんとかなると思う。僕はしてこなかった。

会社員になる時に多少は勉強したので、社会人生活を営む程度には習得したつもりだった。しかし根本的に意欲が欠けているため、好かれるという点では難しい。

では、果たして、あなたは本当に人から好かれたいのか。僕の場合は、否です。人から嫌われたいわけではない。でも人から好かれたいわけでもない。

本当の事を言うと、好かれたい人からだけ好かれたい。それ以外からは、いてもいなくてもいい存在でありたい。そういう都合のいい願望を持っている。めんどうなこと、興味の無いこと、無駄なことはどうしても避けたい。人に好かれるというのは、途方もなくめんどうなことだと思う。嫌われることと同様に。

現実は、そんな都合のいいことは難しい。誰にでも優しい人が、当然誰からも好かれる。めんどうなことを請け負った分、その正当な評価を受けると言ってもいい。その場限りのいいとこ取りはできない。

本能に抗うのは難しい。僕は現在、ほぼ不能に近いが、いまだに情欲が全ての行動の起点になっているような気がして、その矛盾と、その動機不純のみっともなさに気が滅入ってしまう。 

かといって、僕は人から好かれないので、情欲を満たすことはままならない。特に、僕自身が人からの性欲の対象にはならない。

理性的には、情欲などというものから決別したい。現実はそうもいかない。それは生物として生まれてしまったため、仕方がないだろう。諦めている。

信仰などでそういう決別を手助けしていることもあるが、僕自身は決別する努力は不毛だと思う。そのことに費やす労力や時間が。生物は、所詮生殖を最優先するようにプログラムされているのだから。そのあたりは利己的遺伝子などを参考に。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

誰も傷つかない方法があれば、それは好ましい。実際には、そんな都合のいいことを望んでも世の中には転がっていない。どこかでしわ寄せがくる。

人は人を大切にした方がいいと思うし、大切にできない関係は築かない方がましだと思う。判断力が不安定な人は助けるべきで、自分の都合で他人を弄ぶべきではない。

こだわりをなくせば、人は自分からも自由になれ、自由を謳歌できる。こだわりというのは、性別へのこだわり、容姿へのこだわり、性格へのこだわり、人種へのこだわり、民族へのこだわり、信仰へのこだわりなどが当てはまる。これらのこだわりがなくなると、世界の幅が広がり人間はより自由になれる。

しかしこだわりというのは、意識的なものではない。生理的なものだ。人はなかなか、誰でもいいというわけにはいかなくて、誰もを愛することは出来ず、誰からも愛されることは無い。

みっともない、というのは難しい。道義に反するとか、大人として恥ずかしい、などというのは、普遍的ではない。社会的通念でしかない。それを絶対的に思うかどうかは別として、何かこう、みっともなさに、普遍性を持たせる事はできないだろうか。難しい。究極は、かっこいいかかっこ悪いか、に尽きるのかな。

これからの正義の話をしように書いてあった、純粋実践理性に従う正しさの基準の一つとして、全員が同じ事をやっても世界がそれを許容出来るかどうか、が基準になるとあったような気がする。それは公共性という面において。

例えば、窃盗が悪かどうか、を決める基準として、個人の事情、腹が減って死にそうだとか、死にそうな子供を抱えているとか、人を助けるためだとか、貧しいからとかそういった個人的な事情は参考にならない。全員が窃盗をしても、誰も困らないならそれは正義であり、世の中が回るのであれば正義である。とか、詳しくは忘れた。

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

情欲が激しい男性ならば、今セックスが足りていないという欲求は幼い頃から常に持ち続けているのではないだろうか。人に好かれる人は黙っていても処理されるだろうが、人から好かれないならば、尚更溜め込んでいるだろう。そして私のように、それを吐き出す努力を怠っていれば、また、歪んだ倫理観を持ち合わせていれば、あまりよろしい方向に向かない。

私は年齢的に、血気盛んな時期は遠く過ぎ去ってしまったが故に、肉体と精神の間で矛盾が生じている。また、その歪んだ倫理観と、欲求との方向性の違いに、答えがまとまらず、ごちゃごちゃしている。 

ナンパというのがあり、ナンパについて有名なブログもある。

渋谷で働く営業マンのナンパ日記

僕はこの、ナンパというのをしたいと思ったことがない。

ナンパというのは端的に言うと、行きずりセックスの相手探しであって、 「セックスしましょう」と声をかけることはなく、延々とあれこれやりとりを交わして結局セックスするという一連の流れだと思っている。

僕の大学時代の知り合いで、ナンパが得意な人がいて、その人は純粋にナンパをゲームとして楽しんでいた。女の人に声をかけて、会話して笑わせて、食事して、完全に釣り上げてしまってクーラーボックスへしまって後は料理するだけという手前でいつもリリースしていた。その人にとってはナンパはゲームなので、セックスしないのだ。むしろ、罵ってリリースしていた。

その人曰く「女の子は馬鹿だから嫌い」らしい。ただナンパはゲームとして楽しんでいたそうだ。

どうもこの、まどろっこしいのが苦手だ。ただセックスしたいだけなのに嘘をつかないといけない。街で見かけた人に興味があるわけない。ただ可愛かった、セックスしたい、それだけしかないのはみんなわかってるはずなのに、そんな前提はあたかも存在しないかのような一連のやりとり。だから僕は、イタリア人の精神構造というのが一体どういうしくみになっているのか本当に気になる。

イタリア人式楽観思考法

イタリア人式楽観思考法

実際のところ、なぜそういう嘘、偽り、繕い、虚構の手続きが必要なのかというと、相手にセックスする気にさせるためだ。ナンパの技術というのは、いかに女性がセックスを許容するまで扉を開け続けるかの扉ゲームだ。では、男性とは違い、女性にはなぜそんなにセックスまでにハードルがあるのか。それは知らん。そんなものはなくせ。いや、本当は男性にもある。ただ、自ら声をかける時点で本人のハードルは越えている。

僕は個人的に、ナンパに限らず、意図的であるものがその意図をお互いわかっているにも関わらず、意図を露わにせず、成功したフリ、騙されたフリ、予定調和のように意図に持って行こうとする行為が嫌いなため、無理矢理偶然を装うことがある。

いや、僕はそんなことはしない。基本的に、そういうの抜きでちゃんと付き合った人とやるか、そもそも初めからお互い合意の上でまどろっこしいこと抜きでやる。それしかない。そういう、嘘偽りの手続き、やりとりは僕には出来ない。

それはつまり、どうすればいいのか。ナンパというのは、言うなれば接待だろう。演技であり、営業だ。営業というのは、本来の目的を達成するために、あえて別のことを頑張ることだと思う。僕はそういうのができない。セックスするために相手が望む心地を提供するとか、僕はそもそも営業が嫌いだ。

僕がやるのはマーケティングだ。自分を欲しい人を探す。自分を売り込むのではなく、自分を見せる。自分に合う人、自分を求める人が、自分を見つけられるように、自分自身を投下する。マーケティングに成功すれば、そういう需要が自然に寄ってくる。僕に寄ってくるのは僕を求めている人しかいないから、僕はただ自分であればいい。営業も接待も必要ない。

そのへんは全部嘘です。僕は需要を満たすだけの要素がそもそも無い。

コトラーの戦略的マーケティング―いかに市場を創造し、攻略し、支配するか

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