自分探しと言われることについて

僕は30手前で会社を辞めてしまい、手元に残ったお金で何年か外国に行ってしまおうとしている。
ワーホリ制度で1年のビザは確保できるけど、その後どうなるかはわからない。
万が一就労できることになれば、そのまま居続けるだろう。
タイミングが合えば、他の国でまたワーホリを1年継続する。
受かれば、青年海外協力隊で2年また違う国に行く。
途中でお金が尽きるか、気持ちが萎えるか、病気になるか怪我をするか、なんらかの形で帰国するかもしれない。どうなるかは全くわからない。

よく言われるのが、
「帰国したらどうするんだ?」「全部終わったらどうするんだ?」「そもそも行ってる間どうするんだ?」

そんなもん何も考えてません。

次に言われるのが表題の「自分探しなんてやめろ」という言葉。
だいたい自分探しとはなんだろう。
僕は自分探しとはこういうものだと思う。今の状況が合わなかったり面白くなかったり辛いなら、環境や仕事など、いろいろ変えてチャレンジしてみよう。
世界にはどこかに自分にピッタリな環境や仕事があり、そこでは努力さえも楽しくなり、ハッピーでバラ色な人生が送れるだろう。
そんな自分に合う環境、環境に合う自分というものを、いろいろ経験する中で見つけよう。苦しいことをただ我慢するのは終わりにしよう。自分には楽しい人生が待っている。それを探そう。そういうのが自分探しではないだろうか。

「みんな自分探しをしてみよう」という意見や、逆に「自分探しの落とし穴はこうだ」という意見の論戦は遠い昔から繰り広げられていた。ここでは本題ではないから省く。気になる人は「自分探し」で検索してみると良い。結局ステレオタイプであるとかそういうのが出てくる。

やりがい論―「自分探し症候群」から抜け出すために

やりがい論―「自分探し症候群」から抜け出すために

僕は自分なんか探してませんから。

自分は自分で、これ以上でもこれ以下でもないありのままの自分を受け入れている。自分以上に自分を知る人はいないだろう。僕は人よりも多く自分と向き合ってきた。
自分の可能性なんて全く信じていない。というか、もうすぐ30なのに今更自分の可能性もクソもない。

僕は今後も今の自分から全く何も変わらず、自分の居場所がどうとか、そんなことも全く考えていない。生まれてから常に孤立していた僕には、そもそも居場所という考え方がない。何かに所属する意識、帰属意識といったものがない。今ここにいる、この足元こそが僕の居る場所だ。

じゃあ何なのか。僕にとって渡航とは。今回の僕の決断というのは、瀕死の決断であって、決死の決断でもある。

僕は真剣に死ぬことを試みたりはしなかったけれど、あの人このままだと潰れるなあ、時間の問題だなあという風に、自分を客観視していた。

そのあたりの経緯も以前に詳しく書いた。これも本題から逸れるので省く。

僕はこの渡航計画に希望的観測など、何一つとして持っていない。ただ現状からの逃避であった。僕には今後、より良い人生など待っておらず、ただ終わりに近づくだけ。