京都人の遠回し表現について

僕は京都で生まれ育った。京都は遠回し表現の文化だ。表向きの波風は立てず、事を荒立てようとする。大学時代、京都人の文化気質について何冊か本を読んだ。どこに書いてあったか忘れたが、京都は古来、群雄割拠の権力入り乱れる町で、誰がどこに付くとか、誰は誰の敵で味方だから攻撃しないとか、勢力争いが絶えず、立ち位置次第で生存が危ぶまれる時代が長く続いた。約1,000年ぐらい。

東京が首都になってそろそろ150年になろうとしているが、そういう文化は育っていないと思う。むしろ東京人自体がほとんど居ないように思う。知らないけど。とにかくそういう影響を長々と受けた。遺伝子の刷り込みレベルまで。という風に想像してもらいたい。

やっぱり京都人だけが知っている (新書y)

やっぱり京都人だけが知っている (新書y)

そういった権力争いの影響もあり、京都人は人を恐れるようになった。京都人は人の噂を、評判を恐れるようになった。権力者による闇討ち、暗殺、弾圧が日常茶飯事だった京都において、人の噂は命取りであった。自分が知らない間に自分についての噂が立ち、自分の知らない内容で、それが事実であるか、ただの噂であるかもわからないうちに、自分の知らない間に殺されている、ということを恐れた。また、自分の話した事が噂になり、それが誇張され、噂の根源は自分、として殺されたりすることを恐れた。それは権力者同士にあり、また権力者を支える町人、噂の元、伝播につながる町人にも影響があった。

京都人は、それぞれの噂につながるような、意思決定を恐れた。意思表明を恐れた。意思表示をしなくなった。しかし、意思疎通をする必要があった。遠目からはわからないように、当事者同士の間だけでしっかりと意思疎通をしなければ、物事を進める事は出来なかった。やがて、京都人には、遠回しに表現する文化が生まれ、定着した。それに加え、日本語というのはなぜか、はっきりと物事を口にするだけで、トゲがあるという風に思われる慣習がある。波風を立てない、相手を必要以上に刺激しないように、婉曲表現の文化が育った。

こんにちにおいて、それらがどこまで残っているかは他府県と比較してみないとわからない。しかし京都人の気質として、ハッキリとしたわかりやすい意思表示をしない点は根強く残っていると言える。それは、京都内では通じるかもしれないが、市内を出ると、ただ何考えてるかわからない人になってしまう。

京都人がどうやって、市外に適応してきたかどうかは謎だけど、大学卒業以降ほとんど京都の外にいた僕がとった手段は、個人的な事以外はっきり意思表示することだった。
特に、感情的なことではなく、理性的な内容において。だから、結果として事務的なことは話が進むけれど人物としてはよくわからないという印象が残ったようだ。
それ以上に何言ってるかわからないと言われることが多かったが、それは置いておく。

僕自身は、自分の意思や本心、考えを知られる事に対しての恐怖心がとても大きい。
それは京都人うんぬんよりも個人的で、過去の人生において、自分の考えや思想を正確に理解された事が無く、全てが誤解になったという経験に影響している。

僕は表現が苦手だ。そして、誤解から生じた相手の反応というのは全て的外れであり、僕にとっては全てが言われのない反応であった。いちいち誤解を解こうとしていたが、うまくいった試しがなかった。それならば初めから意思表示しないのが正解ではないか、という結論に至った。「あいつは何を考えているかわからない」は、少なくとも誤解ではなく、間違いではなかった。

しかし、今後僕は誤解を恐れないように意思表示していきたいと思う。昔と違って、すぐさま殺される事も無いだろう。失うものもない。守るものもない。不安と恐怖心に立ち向かいたいと思う。