自分の世界を広げる

人には、それぞれ住む世界がある。それは、知りえる範囲であったり、行ける範囲であったり、住める範囲であったり、また、物理的なものだけではなく、許容範囲、考え方の範囲、視野の範囲も大きい。
それは、一方では経済的制約と連動している。移動はお金がないと出来ない。教育もある程度お金がないと受けられない。
もう一方では、社会的制約と連動している。ルールが移動を許さなかったり、逸脱を許さない場合、世界は広げようにも広がらない。狭い世界のまま、死ぬことになる。

僕は飽き症なので、飽きれば全然違うところに移動したいと思う。思想であったり、学ぶこともそう、考え方、場所もそうだ。どうでもいいけど僕は1年に1度引越しをしていた。5年ぐらい。それは別に、飽きたからではなく必要があってだけど。

例えば、田舎の村で生まれ育ったら。村では家一軒あたりに役割があり、村全体でルールがあり、助け合って生きている。村の存続のために、皆が助けあって生きている。
その中で、個人が村のルールから逸脱することは許されないとなると、僕はそこでは暮らせないと感じる。
村にとって合理的で有効で価値があることは、説得すれば受け入れてもらえるかもしれないが、そんな気は起こらない。
村が自分の世界の全てになるなんて、耐えられない。 

例えば、金持ちの厳格な家庭で育ってしまったら。学校や仕事、付き合う人間、教育など、あらゆるものは家のレールに基いて生きていかなければならいとすると、僕はそこでは暮らせないと感じる。
教育、教養というインフラを甘んじて頂き、土台にし、大人になってから自由に動けばいいと思うかもしれないが、癇癪を起こすだろう。
家が自分の世界の基準になるのでは、結局家の範囲から出られていない。 

例えば、低能で貧困な家庭で育ってしまったら。親の頭が悪く、まともな教育が受けられない環境、知識を得る手段さえ身につかない。それは僕にとって地獄だと思う。
何か別のことをしたいという発想も浮かばない、やろうと思っても出来ない、どうすればいいかわからない、ただ感情に従って、動物のように生きる。
あまりにも低レベルな環境と自分が、人生を制約する。それはとてもつらいことだ。 

自由を謳歌するためには、経済と、知能と、ルールから外れる勇気が必要になってくる。そのどれが欠けても満足はできないだろう。他が足りていればお金は最悪なんとかなるかもしれない。

変化のない、決まりきった日常。そこに安定と幸福があるのも知っている。
ただ、僕はそれを手にすることも出来ない。手にしたとしても飽きるだろう。
自分の知らない、新しい世界へ。それがあると知っていながら、見ないで体験しないで死ぬのはつまらない。

いつまでここにいるんだ。もう飽きてるだろう。