web上における、匿名と実名について

僕は高1の時からネット漬けだった。今からだいたい15年ほど前。
当時、世間はまだインターネット=Yahoo!ってぐらいの認識だった。
まだweb上において実名で活動するという習慣がなかった。

というのも、webの当時の位置づけとしては、実社会に組み込まれていなかった。企業サイトも利益を生まないから低コストで形だけの物が多かった。eコマースもwebデザインもお金を産むと信じられていなかった時代。そこで実名を出して本気で取り組もうって人は少なかった。

匿名・実名論争はここ数年活況だったけれど、自分が実名で活動していたのは高校の時の自分のサイトと、大学の時のmixiと、今も続いているfacebookぐらいだろうか。
根本的には、実名には責任が伴う、匿名は自由、という発想があるように思う。責任というのは名ばかりで、粗探しの対象になった時どこまで個人を辿れるか、という違いになる(トレーサビリティと言うらしい)。
実名であれば簡単に探せる。粗探しの対象になった人が親戚一同の名前まで晒されていた時は、人間の醜さを見せつけられた。もちろん、それをやってる方は匿名だ。

実名、匿名には、web上以外での関わりもつきまとう。
僕が高校の時に書いていたサイトは、高校の友人に教えていた。もちろん、高校の友人向けではなかったからハンドルネームで活動していた。web上においては高校の友人同士なのにハンドルネームで呼び合っていた。

当時は高校生だったから気にしないけど、実名、匿名には、知っている人に見られてもいいか、見られたら困るか、という問題がつきまとう。例えば、犯罪に関わることとか、恨みつらみとか、陰口とか、性欲についてとか、最近では会社の人に見られたらまずいことを書いてバレて首になったケース、なんてのもザラにあるのではないだろうか。ブログtwitter炎上のケースでは。

 
クーロンズ・ゲート ハッピーアワー - YouTube

逆に、実名の自分というのは、web上であれ実社会であれ、かなり外向けに取り繕っている事が多い。相手を傷つけないため、不快にさせないため、自分を守るため、ハブられないため、捕まらないため、自分を良く見せるため。

mixi疲れ、fecebook疲れというのは、これらの欺瞞、あざとさ、虚構、いつわりから生まれた倦怠だったのだろう。自慢話を聞かされてもおもしろくねえ。

 人間の核の部分であるドス黒い感情や、地獄の苦しみ、殺意あふれる怒り、ほとばしる性欲、狂気じみた妬みなどが、webの面白さであったような気がする。

それだけではない。普段は共有されることのないような、誰かに対する慈しみ、物事に対する熱意、前に進む決心、探し求めていた発想、そういった正の感情も共有されてきた。人を惹きつけた。
そして、そういうことは大体においてずっと匿名で行われてきた。匿名だからこそ、行われてきた。

 今はそれに終わらず、絵、音楽、小説、写真、ビデオ、あらゆる形をとって、作品として価値を生むまでに至っている。その段階になると実名になってくるケースが多かったが、匿名のままリリースされることも増えてきた(露出した段階で、頑張れば実名に辿ることもできるが)。

 今は、その境界が曖昧になっている。実名でできること、匿名だからできることという境界がなくなっている。実名で事件は起こり、匿名のまま実社会にリリースされる。こういうのは、今は過渡期なだけで、そのうち落ち着くと思うよ。特に受け取る側が。

さっき見かけたブログに「社員に対するSNS利用上の注意」っていう文書が社内で配られたっていう話があったけど、こんなもん意味ない。

これで気をつける人はその時点でアホだし、問題を起こすもっとアホはこんな注意文読まない。気にしない。会社としても、形だけ「注意喚起してます!」って言い訳材料が欲しいだけで、効果はないとわかっているだろう。だろう?

もし実際に問題が起こった時に「注意してたのになんで!!」って頭抱えるのは本当にアホだ。元々意味ないから。意味ないことを頑張るのはそろそろ終わりにしよう。

ネットリテラシーとか、ちょっと気にし過ぎなんじゃないかと思う。
だって、やってることには変わりないんだから。それが実名であろうが匿名であろうが、やっていることは同じ。この、誰かわからなければいい、責任が発生しなければいい、見えないところでやってくれたらいい、というご都合主義はとても嫌だ。

書いてあることは事実だ。少なくとも、そこにあるという事実がある。それを受け止めることのほうが大事なんじゃないだろうか。それが実名であるか、匿名であるかよりも。それが大したことでないならば、誰がやったかわかったとしてもいちいち相手にすることはないし、逆に誰かわからなくても、大切な、重要な内容であればその事実に変わりはない。誰がやったかは関係ない。

何が言いたいかというと、知人がtwitter経由でこのブログを見るところまでは想定していたけど、それを「俺のブログ」として人に教えるところまでは考えてなかったって話。おい。なんのためにそれを。

全然問題ないよ。会社辞めたし、そんなの気にしない。幸い、このブログにおいては、実社会の自分において出していなかった部分というのは見当たらない。やましいことはある。いくらでもある。でも、そんなのは些細な事だ。基本的にはただ恥ずかしいだけだ。仮に捕まったり、殺されたりしても大したことじゃない。

こんにちにおいても、身分を隠して鬼気迫る文書を書き晒している人は存在するが、僕の場合は匿名も実名もそんなに大差ないということになる。

 

匿名性とブラックボックスの時代

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