「ユーゴスラヴィア現代史」感想・書評

ユーゴスラヴィア現代史 (岩波新書)

ユーゴスラヴィア現代史 (岩波新書)

ユーゴスラヴィアについて、どれだけ知っていただろうか。この本は入門書として挙げられていたが、それでも知らないことがたくさんあった。以下、内容の一部と感想。

 

ユーゴスラヴィアの土台

まずはじめに、ユーゴスラヴィアという国家の設立までの経緯が書かれている。バルカン半島に国が多いのは、言葉の違い、民族の違い、宗教の違いからきている。その違いがどうやって生まれたかというと、周辺大国による緩やかな支配だった。

大国の支配地域だったバルカン半島各地では、大国が弱体化してからも、それぞれの支配大国に沿った宗教・民族・言葉の違いが残った。 

ユーゴスラヴィアとなる土地は、もともとビザンツ帝国、フランク王国に挟まれていた。その後もオーストリアハンガリー帝国と、オスマン帝国の間にあった。北東にはルーマニア、西にはイタリア、南にはギリシャがあった。

1918年にユーゴスラヴィアの前身となるセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国が建国される。国家はセルビアが主導となって設立された。

反ハンガリーで、セルビアとクロアチアは共闘する。セルビアは、第一次世界大戦にて人口の29%を失う。周辺国がせめぎ合う中、セルビアは大セルビア主義の元、どこの国にも取り込まれない共同体として、南スラブ人の統一国家を提唱する。

クロアチアがユーゴを望んだことは一度も無かった

ユーゴスラヴィアという国家統合は、クロアチア側からは望んでいなかった。クロアチアは独立意識がずっと高かった。

一方セルビアは、大セルビアという悲願があった。ユーゴスラヴィア王国がセルビア主導で、セルビア中心の国として成立したのにもそういう経緯があるのだろう。

クロアチアは、スラヴォニア、ダルマチア地方を取り戻すために、不本意ながらユーゴに加わった。この不本意は、建国から崩壊までずっとユーゴ内での「クロアチア問題」として残る。統合後もクロアチアは、セルビア中心のユーゴからずっと独立したがっていた。

ウスタシャ・チェトニク・パルチザン 

ユーゴ王国内にてクロアチアは自治を求める運動を起こし、自治州が形成された。その後、第二次世界大戦が起こり、ナチスドイツ側についたクロアチアはクロアチア独立国としてユーゴから独立する。

そのクロアチア独立国を率いたのが、パヴェリッチ将軍であり、ウスタシャという組織だった。このウスタシャにより、セルビア人は大量虐殺される。

元々ユーゴスラヴィア王国内におけるセルビア人中心主義に不満があって独立したこともあり、セルビア人に対する恨みと、ナチスドイツを真似た部分が重なったのだろう。

セルビアはドイツから爆撃され、ユーゴスラヴィア王国政府はイギリスに亡命する。そしてセルビアはドイツに占領さる。ドイツへの抵抗組織として亡命政府より支援されていたのがチェトニクだった。

このチェトニクはユーゴスラヴィア王国軍をベースにしている。チェトニクの規律は乱れており、ドイツ軍と戦わずにクロアチアと戦い、クロアチア人やムスリムを虐殺している。後にはドイツ軍と協力してパルチザンと戦うことになる。

このウスタシャ、チェトニクによる民族虐殺の記憶が、後のユーゴ崩壊の際にも形を変えて再現されることになった。

そして、パルチザン。チトー率いるパルチザンはユーゴの共産党を母体とした、人民の組織だった。第二次大戦中、連合国側は亡命中のユーゴスラヴィア王国政府が支援するチェトニクを対ドイツの抵抗軍と見ていたため、パルチザンはほぼ独力でドイツ軍と戦い抜いた。

ウスタシャ、チェトニクはドイツ軍と共に敗れ、パルチザンが民衆の支持を得て、新しいユーゴスラヴィアを作った。

チトーの死がユーゴ崩壊の原因? 

パルチザンはイデオロギー、宗教、民族の違いを越えて、農民の支持を得た共産党の組織だった。ユーゴは社会主義の元、各民族を同等に扱う国家として再スタートした。

ユーゴスラヴィアは社会主義国だったが、ソ連とは対立し、独自路線を歩む。同時に多民族国家という問題に試行錯誤する。

よく、カリスマであったチトーの死により、ユーゴは崩壊したという説がある。しかし、チトーの死は1980年、ユーゴ崩壊となるクロアチア・スロヴェニアの独立は1991年と、11年の隔たりがある。チトーの絶妙なバランス感覚と各種の実験、試行錯誤の上でユーゴが成り立っていたとしても、その後11年も続いた国家の崩壊について、チトーの死が直接の原因と言えるだろうか。

大セルビア主義が、ユーゴ崩壊の原因?

1991年、クロアチアが独立するに至った経緯として、戦前のユーゴと同じく、大セルビア主義の元、ユーゴスラヴィア国内でのセルビア中心主義に反旗を翻したという説がある。クロアチアの教科書には事実そういった記載があるそうだ。

果たして、社会主義国となったユーゴスラヴィアにおいて、セルビア優位政策は採られていたのだろうか。ユーゴでは、民族問題解決や、体制維持、経済改革のためあらゆる施策がとられてきた。憲法も何度も改正されている。

戦後ユーゴにおいてもセルビアの役割は大きかったが、戦前ユーゴと同様の大セルビア主義が、スロヴェニア独立からのユーゴ崩壊を招いたとは思えない。

本当のユーゴ崩壊の原因

ユーゴ崩壊への間接的な原因として、チトーの死や、セルビアの政策もあるかもしれない。しかしそれらは、どちらかというと崩壊を食い止められなかった理由の一つずつであるように思う。

本当のユーゴ崩壊の原因は、経済危機にあった。ちょうどソ連崩壊、日本のバブル崩壊の時期と重なる。

ユーゴは、ソ連とは違った独自の社会主義を歩む中で、協議経済という市場でも国家統制でもない経済体制をとっていた。

石油危機や設備投資の返済により、貿易赤字が拡大した。経済の立て直しを図るため、セルビア圏を拡大しようとするがコソボやスロヴェニアの反発にあう。

その間にソ連は崩壊し、ポーランドやハンガリーといった東欧諸国は民主化が進んだ。ユーゴは最も民主化が遅れた国となった。

ユーゴの民主化を画策するにあたり、経済危機によってのユーゴ内国家間における、経済格差が問題になった。スロヴェニアは、その経済優位性を他の国に分け与えることを拒み、独立した。

ユーゴの縮図、ボスニア・ヘルツェゴビナの地獄

スロヴェニアが独立し、クロアチアにおいては新憲法と新政権が誕生した。 クロアチアの内戦はどのようにして起こったか。

クロアチア国内には多数のセルビア人がいた。クロアチア独立にあたり、すでに国内ではセルビア人とクロアチア人の武力衝突が始まっていた。クロアチア国内にいるセルビア人保護を掲げ、セルビア人民軍が介入し、クロアチア内戦が始まった。

同じく独立したスロヴェニアにはセルビア人がいないため、内戦にはならなかった。
ボスニア・ヘルツェゴビナにはセルビア人、クロアチア人、ムスリムがおり、それぞれが自らの民族を守るために衝突した。

その際にお互いが、第二次大戦中のウスタシャ、チェトニクの虐殺を非難し合い、火に油を注いだ。忌まわしき記憶、ヤセノヴァツ強制収容所。

ボスニア・ヘルツェゴビナでは各勢力指導者とマスコミによるプロパガンダの煽りを受け、対立は激化した。やがてボスニアには各勢力にて強制収容所ができ、民族浄化が行われていた。国家単位で行われるはずの戦争が、ひとつの国の中で、3つの勢力で行われていたら。争うのが兵隊同士ではなく、民族同士であったとしたら。

民族紛争とユーゴスラヴィアの理想

この本では締めくくりとして、

「民族自決と国民国家は果たして本当に最良の選択なのだろうか」

という問いを投げかけている。

ユーゴスラヴィアでは経済問題を端に発し、各民族が独立する過程において凄惨な殺し合いとなった。これは何もユーゴに限らない。イスラエル・パレスチナ、インド・パキスタン、同じではないだろうか。

もしかしたら、うまくいった国だってあるかもしれない。国民国家は民族にとって悲願であり、何を持ってしてでも否定できないと言われるのかもしれない。

しかし、民族紛争は争いの種を生み、それはどちらかが絶滅するまで互いを恨み合い、いつまでも続く。

例えばボスニアのような多民族国家において、闘争を和らげる手段はないだろうか。
著者は別の帰属意識を持つことにより、争いを軽減できるのではないかと提案している。

例えば、同じく居住する地域に対しての愛着や、同じ言葉を話す者同士の愛着など、民族という枠だけにこだわり過ぎず、同じレベルで相対化できれば、民族紛争は軽減できるのではないか。ベルギーにおいては、それが成功していると書かれている。

僕は、これを日本人的な発想のようにも思える。ユーゴスラヴィアという国はそもそも、それを実現しようとして、失敗した国だったように思う。

ソ連のように、上からの統制で成り立っていた社会主義国家とは違い、チトー率いるユーゴは民族の枠を越えてドイツと戦い、互いに協調し合い、国を育もうとして、そして失敗していった。

課題は、経済問題においての脆さと、民族同一性以外の面について、プロパガンダ・結束力の弱さだろうか。

関連:ユーゴスラヴィアについて

参考:ユーゴオタが非オタの彼女にユーゴスラヴィア解体について軽く勉強してもらうための10冊