長野一郎について「行人」感想・書評

夏目漱石の本では「行人」というものが僕は特別好きで、4回は読んだ。そこに登場する長野一郎という人が、ある独自の思想を持っており、それが語られるシーンがある。

長野一郎の思想は、言葉で説明しにくい。僕が完全に理解していないせいもある。概要だけ言うならば、自己と外界との関係性、連続性についての思想になる。
そして彼が、自己を完全たらしめる境地と、その方法論の欠如について悩むなんて言えば、まるで罪と罰みたいだ。
詳しくは「行人」の中身を読んでもらうのが一番いい。その一部を抜粋した。

苦悩

 死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない。しかし宗教にはどうも這入れそうもない。死ぬのも未練に食いとめられそうだ。なればまあ気違だな。しかし未来の僕はさておいて、現在の僕は君正気なんだろうかな。もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖くてたまらない。

長野一郎は、絶対と自分との距離について、その不一致について焦っている。自分が見つけた境地と、そこへたどり着くための方法論の欠如について、その圧倒的な距離が彼自身を追いやっている。

思想の中身

 兄さんは純粋に心の落ちつきを得た人は、求めないでも自然にこの境地に入れるべきだと云います。一度この境界に入れば天地も万有も、すべての対象というものがことごとくなくなって、ただ自分だけが存在するのだと云います。そうしてその時の自分は有るとも無いとも片のつかないものだと云います。偉大なようなまた微細なようなものだと云います。何とも名のつけようのないものだと云います。すなわち絶対だと云います。そうしてその絶対を経験している人が、俄然として半鐘の音を聞くとすると、その半鐘の音はすなわち自分だというのです。言葉を換えて同じ意味を表わすと、絶対即相対になるのだというのです、したがって自分以外に物を置き他ひとを作って、苦しむ必要がなくなるし、また苦しめられる掛念も起らないのだと云うのです。

これが、彼が所有している思想だ。彼の思想というのは仏教で言う悟りの境地に近いのかもしれない。僕は仏教にゆかりが無いので詳しくはわからないけれど、ある一つの形なんだろう。この内容についてはとにかく、読んでもよくわからない。

絶対との距離

「僕は明かに絶対の境地を認めている。しかし僕の世界観が明かになればなるほど、絶対は僕と離れてしまう。要するに僕は図を披らいて地理を調査する人だったのだ。それでいて脚絆を着けて山河を跋渉する実地の人と、同じ経験をしようと焦慮り抜いているのだ。僕は迂濶なのだ。僕は矛盾なのだ。しかし迂濶と知り矛盾と知りながら、依然としてもがいている。僕は馬鹿だ。人間としての君は遥に僕よりも偉大だ」

 兄さんはまた私の前に手を突きました。そうしてあたかも謝罪でもする時のように頭を下げました。涙がぽたりぽたりと兄さんの眼から落ちました。
私は恐縮しました。

彼は、境地を見出すことに己の全てを費やしてきたのだろう。人類が生きる目的とは、意識するにせよしないにせよ、その本来的なものは「いかに神に近づくか」であると思う。科学や宗教、全ての事柄は各々の手段を、道筋を通って、「いかに絶対の境地に辿り着くか」をそれぞれ模索し、同じゴールへとつながっている。
彼自身の場合もそうで、彼は人生をかけて全てを解決する境地を模索した。彼にとって生きるということは「いかにして絶対を見出すか」という研究が全てだったのだろう。

そして彼は、自身の聡明さ故にそれを見出すことができた。その結果だけを。
答えだけを見出し、導く術の欠如。彼はなお一層の苦痛を感じることになる。

 兄さんは私のような凡庸な者の前に、頭を下げて涙を流すほどの正しい人です。それをあえてするほどの勇気をもった人です。それをあえてするのが当然だと判断するだけの識見を具えた人です。兄さんの頭は明か過ぎて、ややともすると自分を置き去りにして先へ行きたがります。心の他の道具が彼の理智と歩調を一つにして前へ進めないところに、兄さんの苦痛があるのです。

香厳の場合

聡明であるがゆえ悟りの境地に辿りつけなかった香厳というお坊さんに、彼は自分を重ね合わせる。そして、その聡明さの根源になるものを全て捨て去った香厳がある日悟りの境地に辿り着いたことについて、彼は羨む。

「どうかして香厳になりたい」と兄さんが云います。兄さんの意味はあなたにもよく解るでしょう。いっさいの重荷を卸して楽になりたいのです。兄さんはその重荷を預かって貰う神をもっていないのです。だから掃溜か何かへ棄ててしまいたいと云うのです。兄さんは聡明な点においてよくこの香厳という坊さんに似ています。だからなおのこと香厳が羨うらやましいのでしょう。  

香厳禅師の話

長野一郎に見られる狂気には、この香厳の「聡明さを全て捨て去る過程」を連想させる。彼はあまりにも不完全な存在に感じる。人はどこかが飛び抜けていると、その分全体がいびつな、バランスを崩した形になる。
彼は聡明さゆえに境地を知り、絶対を求めるが、その能力を欠いている。彼がその聡明さの全てをかけて絶対の境地を見出したにもかかわらず、彼は報われなかった。彼は今、境地に至ろうとしているのだろうか。狂気という過程を経て。