共産主義への憧憬について

僕の父は昔赤だった。ただ、それを理想として持ってはいたものの、現実的にはあまり捉えていなかったかもしれない。学生の頃はかぶれていたそうだ。詳しくは知らない。

私の地元である京都は赤が多い。何故だろう。歴史と伝統を重んじる京都に何故赤が根付いたのか。その理由の一端は、京都市内における大学の多さにあるかもしれない。もう一つ思い浮かぶのは、首都が東京に変わって以来、京都人にとって保守が意味を成さなくなったからではないだろうか。東京を首都とする日本を歴史と伝統は、もはや京都人にとって価値あるものではなく、破棄すべき対象であったのかもしれない。

ともかく、私にとって共産主義というのは身近で馴染みのある思想であった。しかしながら私が幼い頃にソ連は崩壊し、社会主義、共産主義というのは権威を失い、僕が物心つく頃には既に歴史に組み込まれた過去の事象であった。馴染みがあったというのは、それらを現実的に信奉していたというよりも、その挫折を身近に感じていた。

父が赤だった事を別にしても、僕は物心付く前より母の影響で映画を見て育った。当時ハリウッド映画というのは、ソビエトが崩壊してから先もしばらくは反共映画を作り続けていたのではないだろうか。反共ならずとも、フォレスト・ガンプのような映画は冷戦期が舞台であり、さらに言えば、僕は80年代の映画を数多く見ていた。映画というのは歴史と戦争なしで語れない。反戦映画なども数多く見ていた。世の中から薄れていくのと逆方向に、僕は共産主義について学んでいた。

小学生の頃から僕はヴェトナム戦争について多くを考え、後に大人になってからサイゴンに訪れることになった事は、このブログに何度も書いた。
ここまで書いておいてなんだけど、僕は共産主義者ではない。資本論も読んだことはなく、その内容もぼんやりとしか知らない。そういう政治思想は持ち合わせていない。

ただ、僕の父や、身の回りの人たち、映画などを通じて、必然的に関心を持った。そのものではなく、その関わりについて。関心を持っただけで突き詰めてはいないけれど、どうやらソビエトではない。ソビエトの社会主義は違うのではないか。レーニン、スターリンのどこにその理想があるのかと思うようになっていた。そして、成功例とは言えないまでもヴェトナムに、キューバにその手がかりがあるのではないか、そしてティトー率いるユーゴスラヴィアにもその一欠片があったのではないかと思うようになってきた。

共産主義が失敗する理由とういのは、幼い頃から小学校を初め、半ば常識かのように聞かされてきた。曰く、「結果の平等を突き詰めれば労働意欲の減退につながり、結果滞る」曰く、「統治する組織がやがて階級となり、建前通りにはいかなくなる」。曰く、「向上を目指さない体制は産業の衰退につながり、やがて自滅する」。さて、実際は、そもそもの始まりは、ソビエト共産党とは、レーニンとはスターリンとはどのような人物だっただろうか。そこに共産主義へと導かれるための社会主義があったのだろうか。

僕は本格的に勉強したこともないので、この程度の認識しかない。やがて各国も市場経済を導入した。発展には、負荷と犠牲がつきものである。これは事実だ。人類のより高度な発展には、果たして何をどうすれば導けるのだろうか。芸術や学問は、有閑階級において発展した。これらは労働者、奴隷により成り立っていた。犠牲を伴う発展。犠牲を伴わないことを信条とする共産主義に存続の可能性はあったのだろうか。かといって、発展のための負荷と犠牲は許容されるべきではない。

僕が昔思ったのは、教育こそが全てであり、教育水準の向上はすなわち人間の生活底上げに繋がると思っていた。世の中にはまだ、教育を必要としない、ただ存在の摩耗だけで成り立つ仕事というのがいくらでもある。それらはやがて、全てテクノロジーが人力に取って代わってくれるだろうと思う。人間にしか出来ないこと、というのは逆に付加価値が残る。それは教育の方向性の違いだけとなる。

その中で僕がぶち当たったのは、教育の限界だった。知能の限界。いくら教育を施したところで、ある水準以上の向上が望めない。人によってその水準は様々である。高い人もいれば、低い人もいて、それは教育の質の良し悪しではなく、当人の資質、能力の問題になってくる。いくら教育の質を上げたところで、そこからこぼれ落ちる人たちというのが必ず存在する。国民全員が理性と知性を持ち合わせ、自らの統治による理想国家の運営というのは、理性及び知能指数の均一化という、どう考えてもありえない結論になった。

共産主義にそういった知性への言及があるのかどうかは知らない。とにかく現実の社会主義においては統治機構が独裁という形式を取り、運営されていた。

まあそんなこんなの理由から、僕は自分の人生と直接関わりのない東欧諸国に対して思い入れがあったりするのでした。そういう一連のことを嘘つきアーニャの真っ赤な真実を読んでいて思い出した。

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

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