死体は思う

自分は死体だと思っていた。そう思わずにはいられなかったということもある。会社にいたときに質問をされて、何度かそのような受け応えをしていた。

「何が楽しみなんだ?彼女はいるのか?なんかこう、将来こうしていきたいみたいなのがあるだろ?結婚はいつまでにしたいとか、子供は何人欲しいとか、戸建てに住みたいとか外車に乗りたいとか、そういうのはないのか?」
「ありません」
「え、ないのか?ないことはないだろ。だったらお前、なんのために生きているんだ?」
「自分はもう、生きていないのと同じです。」
「なんだそれは。どういう意味だ。」
「なんのために生きるとか、何を目標にするとか、何が楽しみで生きるとか、そういうのが全てありません。ですから自分のこの時間というのは、残された時間をただ無為に浪費しているだけなのです。自分は死んでいるのと大差ありません。死んでいるわけではないので、痛みや苦しみはありますけれど、そういったことも含めた全てがもう終わったことで、どうにもならず、どうすることもできず、どうでもいいことです。」

それは目の前にある現実をやり過ごすための理屈でもあった。

外国へ行く際に、僕に野心があると勘違いした人がいた。新卒で就職して何年も経ってから今更海外に行くなんて、将来のキャリアアップのために何かでかいことを考えているんだろうと。実際は真逆でした。野心があれば無理してでも10代に行っただろう。野心がある人にはおすすめします。何年いるかわからないけど早ければ早いほど良い。僕がこっちに来ている経緯は前に書いたけれど、その目論見も成功とは言えなかった。読みが甘かった。航空券の料金を調べていなかったんだ。それでも安いのは安い。

死体には、腐敗しかない。改善もなければ発達もなく、蓄積もなければ流動性もない。変化もなく、成長もない。そういう時間を生きている。自分はもうずっと前から自分を諦めており、その日に終わった人生は再び始まることがない。