自分の非コミュっぷりについて考える

先日、自分の非コミュっぷりについて書いた。そもそも自分はなんでそうなんだろう。なんか今までにもそういうことは書き尽くしてきた気がするけど、毎日持っている違和感の中で、今日また一つ明確な違和感があったので書き残しておこうと思う。

僕は人から好かれたいとか、友達をたくさん欲しいとか、いろんな人と仲良くなりたいという人が理解できない。なんで彼らはそういうふうに思うのだろうか。自分は正反対だ。僕は顔を覚えられたり名前を覚えられるのが嫌いだ。人の印象になるべく残りたくない。特に他人から良い印象を持たれたくない。あまり存在感を持たれたくない。持ったとしても不気味な、関わりたくない印象であって欲しい。そしてずっとそうなるように振る舞ってきた。会社員の時も同じだった。なんで自分はそう感じ、そう行動するのだろうか。

僕は何も人間嫌いではない。一人でいるのが当たり前なだけで、特別一人が好きというわけでもない。ただ、人といられないというだけだ。人といられる時は、相手が自分についてある一定の認識を持ってくれている時に限られる。それには時間がかかるし、そこまでしてわざわざ自分と一緒にいたいと思う奇特な人はいない。 僕は他人に合わせることができない。他人を気遣うことも相手の気持ちになって考えることも何もできない。できないというか、やりたくない。めんどくさいし興味がない。せいぜい自分のことで精一杯だ。自分のことだってそんなに関わってられない。

おそらく、僕は他人といることが苦痛なんだと思う。本気でめんどくさいのだろう。そのめんどくささを乗り越えてまで人と関わり交流を増やしたいという欲求がないのだろう。僕が人から好かれたくないのは、そういう関わりを必要最小限に留めたいからだろう。僕のように思わない人というのは、めんどくささの感度が低いのだろうか。それを上回る何か、僕にとっては無価値な何かに多大なる意味を見出しているのだろうか。お金とか、人脈とか、性欲とか、寂しさを紛らわすとか、何かを楽しむとか。

先日学校のアンケートで、ボランティアをやったことがあるかという質問で僕だけがなかった。他の人達は学校で行かなければいけなかったなどという事情があったにしても参加していた。ボランティアなんかは僕には考えられない。お金がもらえて自分のためになることがたまたまボランティアの項目に含まれていた、というだけなら有り得る話ではあるが、ボランティアとは基本的にそういうものではないだろう。僕は無作為に人と関わりたいなどとは思わないし、よく知らない人に感謝されたいとも思わない。

考えがまとまらない。そして、こういう事を書いたところでこれが正確に伝わった試しがない。必ず誤解が生じる。僕が、彼らを理解できないように、僕のことを理解できないという人も多いはずだ。もし彼らが僕の考えを目にしたら、彼らは彼らなりの、彼らに理解できるひどく的はずれな回答を出し、そこに僕を当てはめる。それが本当に僕の思っていることと全く違ったりするから、まためんどくさいと感じる。しかしそれはしょうがないと思う。他人が他人を理解するというのは有り得ないというのが個人的な見解であり、人々の溝が埋まることはない。では人が、僕が、人と人の間で生きていくにはどうすればいいか。一定の、お互い危害のない距離を取ってやり過ごすしかない。
関連:情欲について - Letter from Kyoto