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ブログを書く目的とか②

ブログを書く目的とかの続き

「あなたにとって一番大切なものは?」という質問に対して、僕はいつも決まってこう答える。「記憶です」
「思い出」とは少し違う。思い出とは、ある過去の出来事とそこで得られた気持ちの動きであり、僕が言う「記憶」はそれ以外も含む。例えば、ある疑問を前にして自分が考えたこと、自分なりの理屈なども含む。これを思い出とは呼ばない。
記憶は、自分がどういう人間であるかを形作ってきた紆余曲折であり、いくら知識や才能があったとして、その人の個性を語ることができたとしても、その人間そのものを語ることはできない。どういう道筋を経てそうなったか、彼自身がそれについてどう考えているのか、誇るべきことなのか、忌むべきことなのか。特性は一点を表すことしかできず、彼が辿ってきた線、もしくはその厚み、さらにその時間の長さを測ることができない。

僕は記憶力が弱い。単純な暗記も苦手であり、ましてや過去に自分がどういうことを考えてきて今に至ったか、自分の課題や計画、そもそも目的はなんだったなどということまで、作業の過程や時間の経過と共に忘れることが多い。強く抱いていたはずの意志も、明くる日の倦怠が全て吹き飛ばしてしまう。
本当は何でも覚えていられることが一番いい。自らを連綿と形作るその根拠が明解であれば、その先も自ずと見えてくるだろう。ただ、僕にはできない。強く意識したところで、その小さな器からこぼれ落ちるか、照りかえる暑さに干上がってしまう。だから僕は書き落とす。僕が僕にわかる形で、自分自身が、その日その場所でどうあったということを。

そして、ある日見返す。自分が誰であったか忘れた頃、自分がなぜ今ここにいるのかわからなくなった時、過去の自分に戻る作業を行う。当時の自分がどうやって私をここに導いたのか、何を目的としていたのか、彼の目論見は正しかったのか、間違っていたのか、訂正する箇所はあるか、付け加えることはあるか、もしかすると彼が僕を励ましてくれるかもしれない。 叱りつけるかもしれない。その逆もあるかもしれない。
前だけ見て進むことができる人にこの作業は不要だろう。足元がふらつかない人に、道に迷うことがない人とって、過去と今は途切れることなく続いている。そうやって成長し続けることができる人にとって、過去の自分から学ぶこと、思い返すことなどないかもしれない。しかし、僕は自分が確かであるという実感を持てたことがない。内側、外側からのあらゆる要素にうち崩れ、すぐに疲れ、その場に立ち尽くし、やがて倒れこんでしまう。膝を起こすには、そこに根拠を求める。

自分を見失った時は、自分に立ち返る。そのために僕は、嘘偽りのない自分を書き残すように努力している。それがポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ、虚飾はすぐに見破られる。

人は生まれた時から本質的に変わることがないと僕は思っている。僕が歩んできた人生というのは、保育園や小学校には友達がたくさんおり明るかったが、中学からはほぼ誰とも口を利かなくなり、高校ぐらいから暗さのどん詰まりに居た。
その後一度保育園の卒園アルバムを見返したことがあり、そこに先生から僕に対する感想があった。そこには『きみは普段から大人しく全体を冷静に見て他の人が気づかなかった事を言い当てるね』と書かれていた。それは、僕が大人になってから別の誰かに言われたことと全く同じだった。自分が成長に連れて、環境の変化に伴って変わったと思っていたのは、上辺だけのことだった。
自分の本質とは一体なんだろうか。自分の本質に基づいた考え、行動をとれているだろうか、それを改めて確認するために、そのヒントとして、今の僕は先の僕に向けて記憶を綴る。過去の自分と、今の自分と、そしてその後の自分をつなげるために。