思ったこと

他人がうまくいかなかった事でも、自分がやってみればうまくいく事があるし、その逆もある。人の意見は大切だけど、その内容に捕らわれることなく自分でやってみることも同じぐらい大切だと思う。人と自分は違うのだから。
ただし、客観的な事実や決まりきった内容については当てはまらない。その根拠が明解なのにも関わらず、自分でやってみるまで気が済まないという人はそもそも他人に意見を求めるべきではない。それは相手を信用していないのと同じで失礼にあたる。
関係ないけど前に一度メールで送ったことや書いたことを、「聞いた方が早い」というだけの理由でもう一度人に聞くのも人として最低な行為なので、そんな人は他人から意見を求める資格が無い。

「人とは分かり合うことができない」という前提が、人との距離をより明確なものにしてしまい、余計に近しい人を、理解を求めてしまうというジレンマに陥っている。 性質としての距離というのは時間で埋まるものではない故に、身近な人よりも初めて会った似ている人に親近感を覚えがちだ。
しかし、その人が真に親しい人となり得るかは早計に答えを出すべきではない。何故なら、やはり人とは分かり合えないものであり、それはいくら共通点が多かったところで本質的には全く異なるからだ。私と彼とは別物であり、その距離は近くなれど、永遠に一致することはない。 お互いが真に分かり合えるということを夢見るのはやめよう。
本当は、性質は違えども、同じ時間を長く過ごせた人、趣味や好み、性格が全く異なるにもかかわらず、お互いの理解が及ばないながら、身近に居続けることができた関係のほうが、昨日今日会ったばかりの全てが合いそうな人よりも、より親しい友人である。似たもの同士の関係というのは、お互い通じると思っているが故、自分が中心になってしまう。そこに差異が見いだされると、もろく崩れ去ってしまうことだってある。しかし、異なる人同士の関係というのは、初めから相手しかない。相手は自分と違うのだから、相手に自分の基準を当てはめることをしない。分かり合う必要さえないんだ。
ただ、この「分かり合う」という感覚は麻薬のようなもので、そう簡単に諦めることができず、どこかに落ちていないかとつい探しがちになってしまう。理解できない人に寄り添う気持ちを大切にできればいいのになあ。