わかっていたけれど

自分は本当に真性のひきこもりなんだなあと実感している。最近シェアメイトに連れられてバーに行ったりクラブに行ったり車で観光地に行ったりあちこちと出入りしていて本当にそう思う。それらが楽しくないとかいうわけではない。自分一人で何かやっていたほうが楽しいというわけでもない。ただ、僕の場合ヒマがあったとして気づいたら誰かを誘ってどこかへ行こう、とはならずに、自分一人でこうやって日記を書いていたりすることの方が多い。つまり、人と一緒になってあちこち行動することに対して全く積極的になれない。受け身でしかない。しかも待っているわけでもなく、言われたら行くという程度で積極的に望んでもいない。自分は悩まずにすぐ答えを出してしまう、停滞を嫌う傾向があるため、望んでいる時には自ら出向くが、それもしない。それどころか、断る理由があればすぐ断る。それを遮ってまで行こうとはしない。

シェアメイトの日本人は逆で、コインランドリーに行くのもスーパーに行くのも「一緒に行きませんか?」と誘ってくる。それについて僕は否定的な意見を持っていない。ただ、「全く逆だな」と思うだけだ。そういう人は人同士の繋がりも関係も拡がるし、色々な人と色々な場所へ出向いてあらゆる体験ができる。一方、僕は部屋にこもっているだけ。誰とも会話することなく、向き合うのはもっぱら自分の内側。どこかに行くことはあっても「なんでそんなところに?」というような場所へ一人で出向いて何もせずに帰ってくる。なんだろうこの差は。このようなテーマには過去に何度も向き合っている。子供の頃から大学生の頃もバイトでも会社でも。だからたいして目新しいこともない。人は年をとっても、環境が変わっても、付き合う人が変わっても、自分は変わらない。変わりたいという意思があれば別かもしれないけれど、その意思が既にその人の本質を現している。

やはり僕は楽しいことを避けたい。大勢の人と戯れることを避けたい。安易に誰かと仲良くなったり友達になったりする事を避けたい。人と時間を共有することを避けたいんだ。でも本当は、それって当たり前のことなんじゃないかと思う。僕が誰かと過ごす時というのは何も考えていない時を除けば、仕事だったり必要があったりして、何か別の目的のための過程として避けては通れないから人といる。仮に過程を通り越して結果が得られたら人付き合いなんてすっ飛ばすだろう。必要があるからしょうがない。もしこの考えをお互いに共有することができれば非常に楽で、話は早く結論だけを言い合うことができるのになあと夢想していたりするが、実際は過程を重視したり、過程そのものが目的である人がいたりしてそう都合よくいかない。人と人とはなかなか利害が一致しない。無理矢理どちらかがどちらかに合わせて妥協していくしかない。