日本人の外国人に対する距離感

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photo by Whiskeygonebad

外国人はどこにいる?

日本にいて外国人を意識するのは、映画俳優、ビジネスマン、旅行者ぐらいのものだろうか。音楽好きの人ならミュージシャンも思い浮かぶかもしれない。僕らにとって外国人(とりあえずここでは西洋人としておこう)はすごく遠い存在なのだ。日常生活に溶け込んでいる人はあまりいない。いた場合はむしろ彼らのほうが日本に溶け込んでいるのだ。日本という国には基本的に外国人という存在は溶け込んでいない。

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ファースト・コンタクト

外国人と初めて話すのは海外旅行先だろうか、街で道を尋ねられただろうか、中学の英語の授業に来た外国人教師だろうか、僕は最後のだった。名前とか何を話したとか全く覚えていないが、外国からやってきた、おそらくアメリカ人の男が教壇で何かを喋って黒板に読めない汚い字で書き散らしていた。そうやって初めて生の外国人が目の前で喋っているのを見た。コミュニケーションらしきコミュニケーションは全然取っていない。

初めては大学講師

高校にもそういう教師はいたが、僕は高校でほとんど寝ていたから覚えていない。大学の講義では、外国人の先生が一人でやっている講義も多かった。僕の場合は英語の講義が3つ、これらは当然英語で行われた。他に経済学の講義や一般教養でも外国人講師の講義をとっていたが、それらは全て日本語で行われていた。
大学で行われていたそれら英語の講義は少人数だったため、必然的に先生と話したり周りの人間とグループワークみたいなのをやるのが日常の風景だった。一対一で外国人とまともに話したのはこの時が初めてだったと思う。恥ずかしくて顔がにやけた。

出会うことのない外国人

何が言いたいかというと、それぐらい接点がないのだ。日本で生まれて普通に生活していても外国人と触れるきっかけなんていうのは無い。特にプライベートでは接点がない。僕は数年前まで旅行にも興味なかったから外国に行くこともなかった。旅行したのもアジアがほとんどだ。英会話なんかを習った事がある人なら講師は外国人だったと思うが、僕はない。外国人と直接仕事をするようなこともなかった。

外国人って同じ人間なの?

話を戻すと、大学で外国人の講師と話して以来、また外国人との接点がなくなった。その次というのはもう4年前のチェコ旅行になる。チェコ共和国に住んでいるのは紛れも無く西洋人ばかりだ。バスに乗っている若者からホテルの受付の女の子まで全員西洋人だ。
僕は英語を話せないが、チェコの前にベトナムに行った時、アジア人同士なら言葉が通じなくても怖気づくことはなかった。しかし、相手が西洋人となると何故か同じ人間とは思えないのだ。「あれ、こいつらとコミュニケーション取れるのか」とか思ってしまう。多分同じことを相手にも思われているんじゃないかと思う。でも僕にとって「西洋人」というのはそれほど距離のある存在だ。それは今も変わっていない。他の人もそうじゃないだろうか?まだ男同士で年が近ければ、仲良くなれば分かり合えることもあるかもしれないが、顔も体の作りも違えば言葉も違う相手が女で、共通の話題も何もなければ、まるで宇宙人を相手にしているかのように思えてくる。

旅行者は所詮ゲスト

旅行者というのはある意味特別な存在だ。短期間しか滞在しない上に、目的も限られている。相手からすればゲストだと思ってくれるケースもある。それは、自分が旅行者である場合もそうであり、外国人が旅行者である場合も同じだ。
僕は日本でシェアハウスに住んでいた時、外国人をカウチサーフィンでタダで泊めていたが、日本語がうまい人以外とはよく喋れなかった。それは当然僕が英語できないから。だからどうしても同じ人間として、同じ目線で同じ立場で話すということはなかった。

外国の語学学校における体験

僕はトロントに来て半年間、語学学校へ通っていた。ここでの経験というのは、少し新しくて面白かった。語学学校に来ている外国人は、それこそあらゆる国から来ていた。僕もそこに、同じ外国人として机を並べて英語を学んでいた。そこで僕ら、つまり僕と外国人たちは、カナダというお互いにとっての外国で、初めて外国人として同じ立場だった。

語学学校はグループワークが主になる。机を向かい合わせて初対面の外国人同士が自己紹介を始めたり、お互いたどたどしい英語で恥ずかしがりながらコミュニケーションを取るのだ。フランスから来たフレッドというキャップを被って口にピアスを付けた男が「お前どっから来たの?名前なんて言うんだ?仲良くしようぜ!」みたいな感じで絡んでくる。ウクライナから来たAnastasiaという金髪でグレーの目をした20そこそこの女の子が自分の英語の間違いに気をつけながらモジモジと自分の親のこととか故郷のこととかを話す。お互い自分の英語が相手に通じているのか、相手の超訛った英語を聞きながら話し合う。この光景を自分に置き換えてみて想像できるだろうか?こういう機会、お互い同じ立場でのコミュニケーションというのは他ではできない経験だった。

外国人同士、同じ立場

お互い同じ立場に立って話し合い、初めて相手も人間で、考えており、違う文化のもとで育ち、違う習慣を持っていることがわかる。そんなこと頭ではずっと前からわかっていたが、体験することにより体をもって実感した。特に西洋人やアラブ人、サウスアメリカンの人たちとは全く馴染みがなかったから、僕は今まで彼らがどこかテレビや映画に出てくる非現実的な存在であるかのように感じていた。
そういう外国人に対する印象、自分たちとは違ってどこかリアルな存在ではないような感覚というのは、おそらく外国人と接点のない多くの日本人が、外国人に対して持っているんじゃないかと思う。この感覚というのは、島国で外国人の行き来も少なく植民地も持たない日本という国内だけに閉じこもった日本人からすれば、当たり前の感覚だと思う。

僕は今日本にいないが、語学学校の経験を経ても尚その距離をいまだ詰められていない。稀に僕と彼らの言葉が通じることはあっても、僕は彼らが何を考えているのかわからないし、僕は典型的な京都人だから彼らも僕が何を考えているか全く読めていないだろう。