人と違うということ

僕は残念ながら人と少し違う。同じような人もいるとは思うがマイノリティだと思う。何も自分が特別だとかそういう意味ではない。人より優れているとかそういう話ではない。ただちょっと、感覚がズレているんだ。それは幼い頃から顕著だった。

 

「同じことをされたらどう思う?」

小学校へ入る前ぐらいからよく言われた。そしてこれが、僕には全く当てはまらなかった。僕は人が喜ぶことを嫌がり、嫌がることを喜ぶ傾向があった。僕が良かれと思ってやったことで相手は怒り、僕が嫌がらせのつもりでやったことを相手は喜んだ。これは幼少期から僕にとっての悩みだった。彼らが僕と同じ人間だとはとても思えなかったのだ。自分がされて嫌なことを人にするのは、例え相手がそれで喜ぶと知っていても、自分にとって苦痛だった。例えば、拷問なんかは誰もが嫌がるだろう。もし相手が拷問をされて喜ぶと知っても、拷問するのが苦痛だということに変わりはないはずだ。

人と違うと言ったって、もちろん全部ではない。僕だって怪我をすれば痛いし、暴言を吐かれたら傷つく。拷問するのもされるのも嫌だ。そういう点では同じだ。ではどのような部分が違ったかというと、例えば僕は一人で居たかったし、みんなと一緒にいるのは嫌だった。みんなと同じことをするのも嫌だった。楽しくなんかなかった。

「みんなで一緒にやれば楽しいよ」

それは僕にとって嘘と同義だった。僕がそれを「嘘だ」とでも口にしようものなら「あいつはおかしい」と言われ、危害を加えられた。そのあたりが感覚のズレだ。でも僕は自分に嘘をつくことができなかった。嫌なことは嫌で、例えそれを口に出して表明しなくても、嫌なことを自ら喜んでやろうとは思わなかった。それらは大抵「人が嫌がること」ではない。その場に居る中で「自分だけが嫌なこと」だ。みんな喜んでやっていた。

それを我慢して人に合わせようなどとは思わなかった。自分にとって苦痛であることを、周りの人と同じように自分もさも楽しいかのように自ら進んでやるほど、僕は強くなかった。だから僕は自分がやりたいようにやった。やりたくないことは、必要がなければやらなかった。必要があれば嫌々ながら参加した。「空気が読めない」とか「付き合いが悪い」とか言われたが、君らはそれで楽しいからいいじゃないか、僕はそれが苦痛なんだ。苦痛なことに自ら進んで足を踏み出す人間がどこにいる?

しかしながら、誰もがそうやって自分の好き勝手していいわけではない。その中には当然僕も含まれる。あからさまに誰かを傷つけたり、誰かを不快にさせる行動をとったり、人に迷惑をかけたり、そういうのを全て「個人の自由」で片付けてしまうと世の中は成り立たない。人に迷惑をかけなければ何をしてもいいというわけでもない。その最低ライン、個人の自由をある程度尊重しながらも世の中を運用するための最低限度のルールとして法律がある。その基準というのは普遍的なものではない。法律が正しい、間違っているという類のものでもない。法律はただのルールだ。その国や州、地方で生きていくための、ゲームを進めるにあたってのルールに過ぎない。ルールを守らない人間はゲームに参加できない。それだけ。どうしてもルールが気に入らなければ違うルールのゲームをするか、周囲を納得させてルールを変えるしかない。

僕はそうやって、他人との違いというものを幼い頃より意識してきたためか、人の意見、意思、特に感情において、相手を尊重するようになった。それが自分の意見とは違っても、自分がすごく嫌いな意見で反論することはあっても、そして世の中の大多数の意見とは違っても、相手がそう思うこと、そう感じるという事実そのものを否定したりはしなかった。論理的間違いに関しては必ずしもそうではないが、感情からくるもの、「あれが好きだ、これが嫌いだ、」というようなものに対して、「お前はおかしい」と言って訂正させるようなことはなかった。それは、僕自身がずっと「おかしい」と言われ、虐げられ続けた結果にあるんじゃないかと思う。

僕の好きな言葉に、有名な言葉だがこういうのがある。

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

ヴォルテールというフランスの哲学者の言葉だ。これは捏造だとも言われているが、僕はこの人のこともよく知らない。だが、僕はこの言葉に救われる。僕はこの言葉を誰かに投げかけたいと思う。僕は君と同意見ではないが、君がそう思うならそうすべきだし、その主張を弾圧されそうになったら、僕は君をなんとか助けたいと思う。君は僕と同じだ。