お金を中心に生きるということ

人ってあまりその「消費のサイクルから抜け出したい」とかって思わないんだなあ。消費なのか浪費なのか贅沢なのかよくわからないけれど、同居人がとんでもない勢いで金を使う。僕なんかはその、今収入ゼロだからという理由もあって家賃も含め月$300程度の生活を送っているわけだけど、月$1500ぐらいは稼いでいて家賃も大して変わらない同居人が「次の給料入らないと今月の家賃払えないんですよ」などと言ったから驚いた。

 

何をそんなに使っているのか話を聞いてみれば、主に外食だそうだ。道端で買うホットドッグとか、喫茶店とか、レストランとか。トロントの外食は高い。「食事にこだわりたい」とか「趣味に金をかける」とか「どうしても欲しい物があって」とかならまだわからないでもない。でも彼はそうではない。なんとなく使う。あとお菓子もよく買うとか言っていた。要するに彼自身の認識としてもそれは「無駄遣い」なのだ。服もよく買っているそうだ。まあ働くことが苦ではなく、それで幸せなら否定はしない。

会社員の頃の同期に、貯金が趣味っていう女の子がいた。それはそれで意味がわからなかった。お金を貯めて何が楽しいんだろう?って思っていた。そのために倹約して、飲み物は自動販売機などで買うことを絶対にせず家から持参(これは費用対効果抜群で賢いと言えるけど)、納豆しか食べていないとか、通帳を眺めるのが嬉しいとか。結局その子は資産500億の金持ちと結婚して貯金の必要性というのはなくなったが、おそらく趣味として、自分個人のお金を蓄えるために続けているんじゃないだろうか。僕は何も「貧乏臭い」という理由で否定はしない。ただめんどくさい。あと金が好きじゃない。

この両者は一見対照的であるかのように見えるが、お金を中心に生きているという点においては同じだ。一方はお金を使うことが喜びで、もう一方はお金を貯めることが喜び。じゃあ僕がお金を中心に生きていないのかというと、もちろんそんなことはない。僕はお金を得る手段としての労働ができないだけで、収入を得るにあたってのハードルが他の人よりも高く感じてしまい、どうしてもそのお金が嫌いになってしまう。実際に嫌いなのは労働の方なんだけど「あんな嫌な思いしてお金がもらえるだけ?」となってしまう。必要以上のお金をもらったところで僕は嬉しくないから、そのために我慢したいとは思えない。僕は食べることや消費することで得られる効用が低すぎて、ただ割に合わないんだ。

「楽して金稼ぐの嫌いなんだよね」

今トロントを離れてニューヨークへ行った元同居人が言っていた言葉だ。僕には全く理解できない言葉で、これを聞いた時には驚いた。「ああ、この人にとって金はそういう基準なんだ」と思った。楽しようが苦労しようが僕にとって金はただの金だ。楽して得られるに越したことはない。しかし彼にとって金というのは何かの証、努力や才能の証明みたいなもんなのだろう。彼もこっちでは飲食で働いていたが元々美容師で、彼の価値基準というのはまた僕と全くかけ離れたものだった。彼がよく言っていたのは

「周りはみんなもうすげーやつになっていて、金めっちゃ稼いでたり芸能人の友達がいたりして、俺置いてかれてるんだよね。早く追いつきたい。」

正直くだらねーなコイツの人生と思っていたけれど、向こうは僕以上に僕のことをそう思っているに違いない。人が生きていく上で何に重点を置くかなんて様々だ。彼にとってはそういうことが大事なんだろう。そう考えてみれば別にくだらないとも思わない。いいじゃないか、彼がそれで幸せなんだったら。そう、彼は口癖のように「俺って幸せ」みたいなことも言っていた。おめでとうおめでとう。そして何事にも本気で取り組むのがモットーらしく、こっちでやっていた飲食でもかなり頑張って稼いでいた。偉いと思う。彼は言うほど金を使わなかったけれど、気前も良かった。「いいすよいいすよ」と言って何でも使ってくれとかあげますよという態度だった。悪いからその分ちゃんと返していた。

ある意味で、そういう何か基準が定まっていたり、消費でもくだらなくても何でもいいけれど、それに向けて一生懸命になれるんだったら素晴らしいと思う。うらやましい。僕みたいに人生とは、生きるということは、死とは、マイノリティとして生きることは、苦悩とは、人間とは、世の中とは、などということを毎日頭の中に巡らせて気が滅入っているよりも余程良い。健康で建設的だ。まあ彼らは彼らで考え、思い悩んでもいると思うが。

返信

id:algot 稼いでた時から同じ考え方でした。第一そんなことに正当も不当もないですよ。
id:penguaholic 文中に書いているとおり、僕はお金を労働(労働の対価)と見ています。