大人になれない僕らがしたい恋愛

映画を見ていて思うんだが、映画を見て現実の恋愛を思う時点でどうかと思うが、映画っていうのはそういう現実とはかけ離れた理想をある形において体現したものであり、そこに理想を求めるというのはある意味で正しい形であり尚且つそこに理想だけでなく現実を求めてしまうというのは現実に対する認識がいささか足りない世間知らずの夢見がちな乙女であり、そこにはやはり埋まらないギャップというか、埋められないギャップがあり、そりゃ映画スター並みに美人じゃないとか脚本化されるほど劇的な人生ではないとか分かりやすい部分を抜きにしたって、物語は所詮物語で、我々は物語のような人生を過ごすわけにはいかない。現実はつまらなく同時に残酷なのだ。

 

物語に描かれる恋愛というのは、現実を考えていない。つまり先の事とか未来のこととか結婚とか金とか住宅とか子育てとか養育費とかそういう直接恋愛と関わりのないことは描こうとしない。その場で劇的に起こる恋愛だけが描かれている。そこで終わりたい。そこから先へは一歩も足を踏み出したくない。それが映画の恋愛の一つの形。

そこで彼らは真面目に、真剣に個と個が向き合っている。もちろん、うまくいくばかりが恋愛ではない。それは映画の中でも同じ。しかし映画では、その騙すとか女の人の描く恋愛とかは抜きにして、相手と一体一で対話し合っている。現実の恋愛というのはおそらく、薄っぺらい不真面目な関係から始まる。そういうのがない。互いの尊重や、理解、すれ違い、まるで長年連れ添った間柄か、もしくは波長が合っているのか、そこに他の選択肢や天秤などない。映画にも時折そういった苦悩が描かれる。現実にはなかなか上手くはいかない。そこまで行くにはそれなりの時間と労力を要する。

僕はこの年になって今更恋愛がしたいなどというのは嘘で、実は今まで一度だって恋愛がしたいなどと思ったことはなく、僕はそれをただの人間関係の一つの在り方としか見ていないから、そんなに手間がかかって大変でめんどくさい関係にわざわざ自ら足を突っ込んで泥沼にハマりたいなどという物好きにはなれなかった。あらゆるものが犠牲になる。僕はその、ずる賢い嘘の応酬で行われる駆け引きが苦手で、本音を隠したり安全を装ったり体裁を整えたり無関心なフリをするとか下心のない親切とかそういうの全部できない。

ビューティフルマインドという映画でラッセルクロウ演じるジョンナッシュが、バーかパーティで女の人を口説く時「そういう遠回しのめんどくさいこと抜きでセックスしよう」みたいなことを開口一番に言っており、こんなものは恋愛でもなんでもないけれど、正解だと思った。もちろんジョンナッシュは無視されたか水ぶっかけられたかそんなだった。ただ現実においてこの過程を埋める作業というのは昆虫の求愛活動から進化しておらず「これ必要?」といまだに思う。そのあたりはリスクとか積極性とか色々な問題が絡むことになるだろう。かと言ってその無意味な会話のやりとりでそれらが解消されるとも思えない。ただ気分に訴えかけるだけの、言わばトリックだ。現実とは相反する。危険な人ほど長けている。僕はそういうテクニカルなことは苦手だ。それも人間を、相手の人格を欺くような形でそのようなことはやりたくない。そういうゲームは嫌いだ。

偶然の出会いみたいな、そんなのが現実に存在するという話は聞いたことがあるけれど、そこから関係性が構築されるというには数限りない偶然の重なりか、もしくは何らかの明確な意思が必要となってくる。話しかけようとする意思、懇意になろうという意思、同じ時間を共に過ごそうという意思、それが軽ければ軽いほど卒なく進み、あっさりと消えることも多い。重ければ漕ぎ着けない。さて、映画はどうかというと、周りが状況を用意する。劇的だ。劇なのだから。そこにはまり込んだが最後、自分の意思などというものは存在しない。既にストーリーに組み込まれている。流されるしかない。などと言うてる間に互いの関係性はいつしか出来上がるんだ。不公平じゃないか。

僕らはもう子供ではない。残念ながら、10代の頃のような全てを投げ出しても後悔が無いような恋愛というのをする自信はもうない。僕らはそれが単なる理想であり、永続する類のものではないということ、そしてそれが理想にしか過ぎないからこそ、現実的であろうとするからこそ再び前へと進めることも知った。本音を言えばやはりそれらは理想であって欲しかったし、未来永劫続くものであって欲しかった。でも結局うまくいかなかった。そういうことを繰り返すのが10代のうちの恋愛だと思う。

20代になると、そういうのからは少し距離を置いた。そういう真面目なテーマに触れる時であってもなるべくなら情熱を装いつつ、自らは冷静に対処した。冷静ではあったが至って真剣だった。真面目にも不真面目にも真剣。自分のことを、自分の享楽を第一に考えた。これが20代前半の恋愛だった。相手のことなどを一度たりとも真面目に考えたことなく、むしろ相手を信用してさえいなかった。どこかの誰かと同じ、ただの一人の女性として見ていた。そして流れるように時間や人は目の前を過ぎていった。誰だったっけ。

20代も後半になると、そういうことを考えるのさえめんどうになった。もう何処かから金塊降ってこねえかな、の精神だった。金塊は降ってこない。僕は人の隙につけ込んだ。悪いと思いながらなんでもやった。決して騙したわけではなかったけれど、全力で向き合った。何一つ隠そうとはしなかった。僕に結婚の意思がないことなど些細なことだと思っていた。ただしそこは現実だった。

僕はその、劇場型破滅的思考で、夢見がちな犯罪者にありがちな、現実の痛みとか苦しみを全く感知することのできない出来損ないなのだろう。だからこの現実の世の中を真っ当に生きることができない。いるなあそういう人、頭の中がちょっとよろしくない、かわいそうな人たち。子供だったら許せたものの、都合良くねじ曲がったまま歳食ってしまった。つまらない自分にはもうとおに飽きている。それが原動力。

僕はいまだにそういった恋愛関係ではなく、親しい友達であることが理想だと思っている。これを言うと最低だとか最悪だと言われたりすることも多い。または子供染みているとか、本の読み過ぎだとか。僕はその、男女関係というのがどうにも好きになれない。つまり、お互いを男であり女であるという認識が生じることにより、お互いの関係性の清廉さが失われるように思う。そこに性別の認識が潜り込めば、それは言わばノイズと化す。汚れの始まり。お互いそんな認識がなくたって信じ合え、話し合え、仲良くいられるはずだ。真に親しければ。そこにセックスが生じたからといって、それは親しみの戯れであり、自らの欲望を相手にぶつけるとか、互いに探り合いながら駆け引きに手を打つとかそういった物と正反対にある。試合のようなものだ。勝ち負けがあって先に進むトーナメントではない。戯れの試し合い。そこに打算はない。だって僕らは親しい友人なのだから、打算などあるはずがない。あまりこの考え方が理解されることはなく、なるべく人に言わないようにしていた。誤解の元になるから。イエローモンキーも言っている。

男らしいとか、女らしいとか、そんなことどうでもいい。人間らしい君と

4seasonsより引用

兎にも角にも現実と理想の隔たりは如此夜空にはためく星のようであり、私が足踏みしめる大地からは測れた距離ではない。あわよくばそれらの金塊が全て足元へ降ってきてはこの大地を薙ぎ倒して儚き夢の世界へと誘ってくれたら、それはもうまさにその時が人生の終わりと呼べることでしょう。

今週のお題「おとな」