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第3弾、ブログを読んだ人と会ってきた

ネット ワーキングホリデー

僕はオフ会とか出ていないし誰かと会いましょうって話はしたことがないんだけど、何故か恒例の企画となってしまっているブログを読んだ人と会ってきたin Torontoシリーズも第3弾となりました。そして全て非ブロガー、ましてやはてな村民ではない。ツイッターもやらないような人ばかり。純粋にただ検索かなんかで引っかかってブログを読み、読み続けてくれた人たち。だから毎回よくわからない感じになっている。相手は僕のことをある程度知っているが、僕は相手を全く知らない。そういう会話。もちろん初対面。

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今回は率直に言って面白かった。こう言うと今まではどうなんだって話なんだけど、それぞれまたタイプが全然違い、今回会った人はwebとか取材とかライティングとか翻訳とかそういうことをしている人だった。マネジャーと言っていたから経営者かもしれない。最初にそういう仕事の話になった。仕事を一緒にやりたい人の話とかそういう事を言われて、僕は勧誘されているのかと思ったけれど違った。

この人は、僕が言うのも本当に失礼かもしれないが、すごく変わった人だった。歳は多分僕と同じぐらいで、日本人の方とご結婚されており、トロントはもう長くアメリカの大学を出てトロントの院に通い、今はこちらでお仕事をされているものの会社はアメリカの会社だそうだ。大学からずっとアメリカに留学されているということで、僕は失礼ながらも「金持ちなんですか?」とか聞いたら「学費や仕送りなどを考えたら東京の大学に行くのもアメリカの大学に行くのもそんなに変わらないよ」と返ってきた。女性なんだけど理系の方で、物事を論理的に考えるのがクセなのか性格なのか、今まであまり会ったことがない感じの人だった。僕は相手の人をよく知らないけれど、多分すごくいい人なんだと思う。人の相談をよく受けるとかそういうことも言われていたから、あとは話している雰囲気とか物腰とか、すごくいい人なんだろうなという印象を受けた。

僕らは場所を変えながらも3時間か4時間ぐらい酒も飲まずに会話していた。その内容というのが実に抽象的で、曖昧かつ多岐にわたるため文章で説明しにくい。僕の考えるプロセスに興味があるということだった。お互いの考えるプロセス、順序について話し合っていた。人と会話をする際のシミュレーションなど、受け応え、やりとり、その接合や拡散、収束について分析し合っていた。例えばAとBがおり、Aの質問に対するBの答えによってその後の会話に分岐が生じ、Aの質問の意図によって分岐の仕方が変化し会話の到着点へのルートが変わってくる。ルートが重要なのか、それとも到着することが重要なのか、最短であることが重要なのか、最も安全であることが重要なのか、どのルートをたどって結論へと導きたいのか、よくわからないですね。

あと僕は一人でひたすら笑いの文化について力説していた。僕の思考ルートにこの「面白いかどうか」それは興味深いなどではなく、笑えるかどうかという要素が大きく関わってくることもあり、僕はコミュニケーションにおける笑いの位置というのを説明していた。

「それってフランス人のマナーで食事中は食事の内容について話さないといけないみたいなもの?」

と聞かれた。それはつまり「関西人が会話をする、コニュニケーションを取るのであれば面白くなければならない」というのがフランスの食事中の会話におけるマナーと同様のものではないか?という問いかけであった。僕はそのフランスの食事中のマナーというのを初めて聞いたんだけど、なんだそれ、ひどい話だ。僕はその場でも酷評していた。フランスの食事中のマナーとして「何が美味しい、どれがどうだから美味しい、どれが好きで、これはこういう調理で」などという会話を毎回延々としなければならないらしい。なんじゃそれは。そんな食事には出れねえ。クソつまんねえ、興味ねえ。うまかったらうまいね、それでいいだろうと思ってしまう。フランス人と飯は食えないな。そんなことを思っていた。というか話していた。

関西の笑いを共有する文化というのは、それとは違うと僕は言いたい。というか言った。飯のうんちくとかクソつまらない話題を共有する文化は、食事に興味がある人であれば良い文化かもしれない。僕は全然興味ない。全く興味ない。うまかろうがまずかろうが、まずいのは嫌だけど味が旨いからといってそんなに興味はない。そういうものと笑いは根本的に違う。笑いに興味もクソもない。笑いというのは万国人類共通の人間に備わった機能であり、それは喜びである。会話において笑いを共有する文化というのは、言わば喜びの拡散であり、おもしろければいいということもある。おもしろければうまくいくことだってある。それは飯の話のように誰かに否定される類のものでは無いと思う。確かに、他人に笑いを強要する、ボケ、ツッコミ、オチを求めるというのはやりすぎだと思うけれど、会話においておもしろさを挟む、求めるというマナーは人としてのユーモアに通じるものだろう。そんな話は別にどうだっていい。

話しているときはちょっと余裕を見せてましたが、僕は今貧困にあえいでいるため、どうぞ僕に出来ることがあれば何でも言ってくださいという感じです。なんというか、僕自身を客観的に見ると多分すごく、胡散臭かったと思う。