なぜ「ユルく」なのか

僕は関西人だからかあまり「ユルく」とは言わない気がする。「ダラダラした」とかは言うけれど少しニュアンスが変わる(余談だけどNuanceはフランス語源らしく、意味としてそこに既に「少しの違い」が含まれているから、日本語で「ニュアンスが違う」って言うのは誤用?)。「ぬるい」はよく使うけれどこれも意味が変わってくる。でも僕はこの「ユルい」とか「ユルく」という考え方、発想は好きだったりする。シャーマンキングというマンガでよく使われていた。

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ユルくないと機能しない

僕に限らず日本人は基礎教育も受けた人が多く、きっちりとした人やルールをビシッと守る人が多い。こんな僕自身にだってそういうところはある。ルールがあり、それが守られないと必要以上に物事に対して厳しくなってしまう。それが正しく、上手く機能すればいいんだけど、いいことばかりではない。時には非効率で、柔軟性に欠け、新しい案などを取り入れにくい。何よりめんどくさい。具体事例を挙げてみよう。

シェアハウスのトイレ

例えば、シェアハウスのトイレがある。6人住んでいたとしよう。普通にきれいに使用してたとしても、毎日使っていると当然汚れる。それを誰が掃除するか。もちろん定期清掃なんか呼べない。オーナーもやるわけがない。住民でやるしかない。じゃあ住民の誰がやるか。誰がやるかを選ぶ際に、どういう手段があるのか。

  1. トイレ掃除係を決める→役割
  2. 週1交代の当番制にする→ルール
  3. 気付いた人がやる→ゆるい

住人の質によってどの案が妥当かというのは分かれるものの、思いつくのはだいたいこんなところじゃないだろうか。

1.トイレ掃除係を決める

1はあまり見たことがない。トイレの不満は全てその人に行き、トイレの文句は全てその人が言うことになる。あまり健全ではないかもしれない。仮にその係の人がトイレ好きで紙を補充したり掃除したり綺麗に保つことに喜びを感じていればいいけれど、なかなかそういう人はいない。普通は嫌がるだろう。そうなるとガチガチギスギスしてくる。

2.週1交代の当番制にする

2は日本でよく見られる。公平さを全面に押し出した民主的な案だと思う。みんなが嫌な仕事でも全員で負担する。6人でトイレ2個だとしても多くて月1回だ。回ってくる数も多くない。だからみんな我慢しようっていう案。ただこれをやると、掃除の出来具合で差が出たり、サボったり忘れたりということがよくある。そうなった場合に追求がある。今日の当番は?お前ちゃんとやれよ!ペナルティな!ギスギスしてくる。

3. 気付いた人がやる

3は、この中で一番ユルい案だ。これだと同じ人が何度も掃除することになり、その人が不満に思う。もしくは、汚くなっても誰も掃除したくないからしない。3の案というのは機能しないんじゃないだろうか?

気付いた人が掃除するのは、汚い状態が嫌だからだ。それを解決するのは本人が決めたことだ。だからその汚い状態が解決したことによって恩恵を受けるのは本人だ。そうでなければやるはずがない。しかし、自分の気分のためだからといって、自分がせっかく掃除したのに1ヶ月経ってまた汚ければどう思うだろう。「あいつらまた汚しやがって」と思うだろうか?自分も使っているから文句は言えない。「今度はお前が掃除しろ」なんて言えるはずがない。だって前回は自分が勝手にやったんだから。自分が勝手にやったと言っても掃除だ。親切でやったんだ。非難される覚えはない。そういう人が一人でもいてくれないと、下手すれば汚いトイレの我慢大会になってしまう。それはさすがによくない。しかし、次に別の誰かが掃除したところで「何で俺が」的な同じ不満が出るかもしれない。

そういう状況に耐えられないなら、もしくはそういった状況で自ら進んで掃除することを受け入れられないのであれば、そこに住むべきではないと思う。事前に平常時のトイレの汚さを確認しておくべきだった。トイレに限らずこういったことはキッチン、共有スペースなどあちこちに出てくるから、部屋の見学に来た日はトイレがきれいだったとかそういう言い訳は通用しない。シェアハウスではそこでどんな生活が営まれているのか重要になる。住むか住まないかの重要なポイントになりそうな部分は、現場で確認できなければ事前に説明を乞う方がいい。僕はこの2と3は両方経験しているけれど、以外なほど結局3でいいやってことになることが多い。なぜならめんどくさいから。外国人が同居していれば、中には掃除の仕方もわからない人だっており一生やらない人もいるだろうから順番交代制の方が全く何もしないよりはまだましかもしれない。それでもそういったルールは少しでも少ない方がいい。

ルールが束縛を生み、失敗や失念を生み、争いを生む。お互い共通の認識が持てる最低限のルール(物を盗まないとかゴミは出すとか)は守らないといけないけれど、それ以外は公平感を守るためきつく縛るよりも、ある程度ユルく許容できる人同士が集まった方がいいんじゃないか。それが苦痛であれば、自らがそこに合わないと知って立ち去るだろう。そういう出入りの気軽さ、参入障壁の低さもユルさのうち。ルールを細かく作り出すと管理がめんどくさくなったり、ルールに縛られて生活するのは全然楽しくない。

チームワークとか結束っていうのを僕はあまり良く思っていない。みんなバラバラでそれぞれ自分の得意なことをやりたいようにやり、それがお互いの助けになるというのが理想だ。料理得意な人が飯と掃除当番を交換するのもアリだと思う。人はどうもズルをすること、フリーライダーを嫌う傾向がある。仕事でお金をもらうのであれば必要なことかもしれないけれど、生活をするには相手に寛容な方が楽なことだってあるだろう。