「寂しさ」をよくわかっていない

人からよく「寂しがり」だと言われる。それは昔からそうで、小学校の同級生にも言われていた。でもいまいちよくわかっていなかった。「寂しいってどういうこと?」などということを本気で考えていた。なぜ寂しいと思われているのか。そしてなぜ僕自身はそれを認識していないのか。

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「寂しい」という感情は、簡単に言えば独りぼっち、孤独がつらいという意味だろう。それはさすがにわかる。そしてそういう感情があるかというと、人並みにある。しかしそれというのは全く解消されることがない類の感情であり、孤独は感じながらも、それについて考えた頃から、つまりずっと昔から既に諦めきっている。

  • なぜ寂しいのか→孤独だから
  • なぜ孤独なのか→分かり合えないから
  • なぜ分かり合えないのか→違うから
  • なぜ違うのか→各々独立した人間だから

頭の中で寂しさというのはこういう処理をされ、たどっていった先で人類の根源的な部分に行き当たった。言うなれば、人が孤独であるのは当然のことだ。それに気付いているか否か、もしくは疑問をいだいているか否か、違和感に向き合っているか否か。僕らにおける個体の差異というのはごく僅かかもしれない。そのごく僅かの違いというのが我々を決定的に分けてしまう。僕は僕であり、あなたはあなたである。それが孤独ということだ。そこから生じる寂しさというのは、人が人である限り免れることはない。

子供の頃にそういう考え方を持つようになり、自分と人、人間同士と言えばいいだろうか、我々を分け隔てるものを強く意識するようになった。そして、さらにその先に進めば違いこそが偉大であるという風に考えるようになった。生物は多様性に満ち、あらゆる環境に適応していく。進化はまさのその違いから生まれる。違う者同士を掛け合わすことで生物はより強く、より長く種を存続させていくことになるだろう。

これが僕にとっての「寂しさ」であり「孤独」だ。だからそれらを悪く捉えていない。人と分かり合えないこと、通じ合えないこと。孤独というのは人と関われば関わるほど自らに重くのしかかるものであり、苦痛ではある。その苦痛は、例え友人といようと、彼女といようと、大勢でいようと逃れることはできない。仮に孤独を感じない瞬間があるとすれば、それは偽りに過ぎない。自分の感覚に騙されている。一体感であるとか、そういったものは「感」でしかない。我々は一体にはなれない。それは肉体ももちろんそうだけど、心においても同じ。なぜなら僕は僕で、あなたはあなたであるから。

そういう話とは全く別に、僕の性格的な難点がある。一人でいたい願望というのがまた強烈にある。子供の頃から一人抜けだして帰る、ということが数限りなくあった。人と一緒にいられない気持ちが凄く強い。全くの一人になりたい。最近であれば、友人の家に行っていた際に時間が遅くなり、外も寒くバスも無いから泊まっていけと言われた。夜の3時だったかな。ソファがあり、ブランケットを持ってきてくれた。泊まること自体に何の不都合もなかったけれど、どうしても一人になりたかった。一人になって何をするというわけでもない。ただ寝るだけ。結局その日は歩いて帰った。冬の寒空の中を、1時間以上かけて。僕は誰かと同じ部屋で長時間いるだけでも厳しい。喋っていたり一緒に何かに取り組んでいたり、共同で別のことに集中していれば気にならない。でもそれが終わった瞬間にもう無理になる。気まずいとかそういう意味ではなく、一人になりたい。

そういう人間がなぜ人に「寂しがり屋」などと思われるのだろうか。考えたところ、ある面において細かいことをひたすら追求するのが寂しく映るみたいだ。何を追求するかというと、論理的正しさ。本題は大したこと無いのに、その論理的正しさをひたすらずっと追求するように会話をするから、「この人は寂しい人なんだ」と思われている。これは誰かに聞いたわけではないけれど多分そう。

そしてもう一つ、寂しい人だと思われるのは、極度の暇人であることに起因している。一人でいたいなどと強く願うぐらいだから、人付き合いが無い。だいたい誘われたらとりあえず断ったり、基本めんどくさいことはしたくない。そんなことを繰り返していると、声をかけられなくなり周囲には誰もいなくなる。まさに孤独の状態。そういうのに慣れており、時期によって何日も誰とも会話しなかったり、ずっと部屋にいたりする。別の時期には普通に人と関わる生活を行き来している。それは数日や1ヶ月といった短い間隔で交互に訪れる。

しかし、人と関わると言ったって周りには誰もいない。ましてや僕がはねつけ続けてきた彼らに今更ついていけない。暇でしょうがない。暇が募ってどうしようもない時に手当たり次第自分から声をかけまくってしまう。その場の暇さえ解消できればそれでいいという具合に。そいうことが重なると「あの人は寂しい人なんだ」という印象を植え付けることになる。本当のところ、暇もそれほど嫌っていない。暇な時にやることというのはいくらでもあるから、そういう時間を気ままに使えるのはある種の贅沢であり、理想の形とも言える。しかし暇でどうしようもなくなってくると、一人では何をしても退屈に感じる。何もやる気さえ起こらなくなる。そういう時に人に連絡しまくるから「やっぱあの人は寂しい」って思われる。僕にとってそれは暇でしかなく、これは寂しさじゃないと思っている。人恋しいと言ったって、誰かと一緒にいたいわけじゃない。ただ暇なだけ。そう明確に断言しているものの、今まで一度として伝わったことがない。

寂しさの本質とはいったいどこにあるのだろうか?