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自分のために死ぬな、俺のために生きろ

自殺というのは、言うなればわがままなのだろう。わがままという言い方は悪いかもしれない。周りの人の心情を顧みることなく、優先することなく、自殺は自分のためにやることだと思う。当たり前といえば当たり前かもしれない。そこまで切羽詰まった状況で周りの人がどうとか考える余裕はない。周りとは肉親や伴侶も含む。人の話を聞く余裕さえ無い。同様に自殺を止めるという行為も、止める人のわがままでしかないと思う。相手が死んで自分が辛くなるのは嫌だから、相手が辛かろうと生きることを強いる。自死の前段階にあるそういった攻防というのは、互いのエゴのぶつかり合いだと思う。

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高校生の頃、僕は人の自殺を受け入れたことがあった。死んで楽になるなら、相手にとってそれが本当にいい事かもしれないと思ってしまった。彼女は僕の目の前で薬の過剰摂取を行い、結局人に見つかって病院に運ばれ一命を取り留めた。その時僕の中に残ったのは後悔と無力感だった。自分は肯定することも否定することもできない。何もできない。

小学生の頃、母親に自殺の話をしたことがあった。僕は自分が生存に向いていないと思っていたから、そういうことがあるかもしれないと。だから、覚悟しておいて欲しいという言い方はおかしいけれど、知っておいて欲しいと思った。急に息子が首を吊るよりも事前に知っていたほうがあとあと楽だろうと思った。当時母親が僕に答えたのはこうだった。

「そんなん絶対あかん」

偶発的な死というのは、例え受け入れられないにしても仕方がない。しかし自分で死ぬようなことは許さないと言われた。僕は当然「それは自分勝手だ」と答えた。母は

「勝手で結構、そんなん絶対許さん。自殺したいとか思う前に私に言いなさい。あんたの考えてることは難しすぎてわけわからんけど、死なんですむようになんとかするから。死ぬんやったら私が先や。その後やったらあんたの勝手にしい。」

そんな勝手な話はあるか、と僕は子供ながら反発した。「本人にとってそれが望ましいのであれば、本人の望むようにさせる事こそ相手の尊重ではないか」そういう趣旨のことを言ったと思う。僕の自死という行為、それに至った経緯及び結果を理解し、受け入れる事こそが、僕に対する愛情の形ではないかと。

「そんなもん知らんわ。あんたな、私がそんな風に思うと思ってんの?そんな尊重とか愛情とかいらんわ。あんたが私と違うんは知ってる、私もアホやからあんたのそういうのはわからへん。でも死ぬんはあかんで、それやったら私が先死ぬわ。」

それは困る。僕は自分の話をしているのに、自分の事で人が死なれるなど最も望まない。僕はその当時自殺しようと考えていたわけではなかったからそう思えた。何度も言うけれど、本気の人は他人が死のうがそれどころではない。例えば綱渡りをしている最中に「頑張れ!君が失敗したら僕も死ぬから!」などと言われて構ってられるはずがない。当時の僕が思っていたのは、死ぬか、気が狂うかどちらかだろう、ということだった。「僕が死なないとしたら、頭がおかしくなって迷惑をかけるかもしれない、例えば僕の世話を一生する羽目になるかもしれない。車椅子を引いたり、食事や看護といった全てのことさせることになるかもしれない。僕はそれが嫌だ。そんなになるぐらいだったら死んだほうがお互いまだましだろう。」そんなことを僕は、提案のつもりで言った。

「アホなこと言わんといて。死なれることに比べたらそんなもん屁でもないで。私が何歳まで生きるかわからんけど、あんたがそんな状態でそのままおっさんになってもずっと世話でも何でもするわ。私が死んでからはどうしょうもないから勝手にして。」

正直「めんどくせー親だな」と思っていた。何で僕の気持ちわかってくれないんだろうって。僕は子供の頃ずっと理解者を求めていた。最も近しい母親なら僕の言っていることを理解してくれるかもしれないと期待していた。だから当時、母親にそう言われて僕は幻滅していた。違うだろう、そうじゃないだろうって。だって、僕は親切で親に言ったつもりだった。前もって知っておいた方が相手も多少楽だろうと思い告げたことに対して、このように返されるとは思っていなかった。僕の意見は全否定された。

僕と母親でそういうやりとりをした事を、冒頭の方に挙げた人の自殺未遂の後に思い出した。「僕はなぜ、母親と同じ態度を彼女に示すことができなかったのだろう」僕はそう強く悔やんだ。彼女は助かった。それはいい。しかしそういう問題ではなかった。彼女に対して、母親が僕に言ったような態度を取れなかったのは、彼女が他人だからか、いや関係ない。母親はおそらく「母親だから」みたいな事を言うだろうけれど、世の中には子供を顧みない母親なんて腐るほどいる。それは正常とか異常とかそういうものでもない。単に相手に対してのエゴの深さの違いに過ぎないと思う。僕の母親は僕に強い情を持っていた。そして僕が冒頭の彼女の自殺止めなかったのは、まず第一に相手を理解しているつもりだった。彼女にとって、生きることよりも死ぬことがましな選択であり、それに同意する事こそが彼女への理解であり尊重であると信じていた。しかし、仮に彼女が死んでしまっていたら僕は今以上に悔やんでいただろう。生きている今でもこうなのだから計り知れない。自分の気持ち以上に彼女の気持ちを尊重することなど、本当にできただろうか。彼女の死に同意していたから、彼女も喜んでいただろうか、彼女がどう思うかなんて本当は関係ない。僕は間違いなく同意したことを悔やみ、苦しむ。それは僕のエゴだ。彼女は死を望んだ、それは彼女のエゴである。まさにエゴとエゴのぶつかり合い。そして第二に、僕には彼女の人生を背負ってでも止める覚悟がなかった。能力がなかった。だから僕は「お前の人生を俺が何とかする」とは言えなかった。そしてそれができない人間に自殺を止める資格はないと思っていた。それでも僕は悔やんだ。彼女の自殺を受け入れようとしたことそのものを悔やんだ。自分の無力さ故に、というのは嘘ではない。自分の懐の狭さにも、器の小ささにも。「僕にもっと余裕があれば」僕は当時もそう言っていた。しかし「止めるからには相手の人生を背負わなければならない」は本当に正しいのか?

僕にとって彼女の自殺未遂と、子供の頃の母親との会話は二つ重なり、僕の考え方を変えてしまった。理解なんて、する必要はない。僕は中高生ぐらいになると、自分が人に理解されるといういことはおそらく無いだろうという結論に行き着いた。理解を求めることは不毛であると。いや、そもそも他人の理解って必要か?不要だろう、その考えは今でも変わらない。そして、人同士の相互理解が存在しないのであれば、全てはエゴになるのではないか。相手のことはわかりようがない、わかる必要がない、結果自分の人に対する態度、人の自分に対する態度というのは全てがわがままになり得る。「そうじゃないんだよ」という言葉は通じない。届かない。それでも尚、相手は自分に対してエゴをぶつけてくる。自分もそうすべきだ。相手に対する思いやりなんてものは、相手の心情を察することでも理解することでもない。いかに自分のエゴを押し通すか。

今後、誰かが僕の目の前で死のうとしていたらどうするだろう。見ず知らずだからといって放っておくだろうか。それとも話を聞くだけ聞いて引っかからなければ「じゃあ、どうぞ」と片手を返すだろうか。それで彼は絶望に暮れるのだろうか。わからない。ただ一つ言えるのは、僕は子供の頃からこんな状態だから、他人の人生を背負うなんて選択は有り得ないということ。それでも僕は止める。多分止める。それは僕のために止める。相手がどう感じようと、それをエゴだと言われようと、ましてや母親が僕に言ったように「その後の人生を背負う」などということができなかろうと。それが無責任な態度であるということを理解した上で、それでも僕は止めるだろう。僕と彼には何の関係もない、偶然その場を通りかかっただけで、今日止めて明日彼が死のうと僕には気づくこともできない。だからその場凌ぎだ。その場限りの、僕の自由意志を振る舞う。相手の心情を聞くことはできても、正直知ったこっちゃない。ましてや理解なんかできないだろう。僕は止めます。あなたのためではなく、自分のために。どうぞ僕を憎んでくれたらいい。僕がそこで止めたことを恨んでくれたらいい。それで僕が彼に殺されたとしてもしょうがないだろう。そういうことになったら本当は困るけれど、止めてしまったのは僕のエゴだ。では、自殺を止めるのに「相手の人生を背負う」覚悟がなくても、せめて「殺される覚悟」は必要だろうか?どうだろう、僕にはその覚悟もない。逃げたりすると思う。でも、それでも止める。中途半端な覚悟で止めると思う。例えば医者の人だったらどう答えるだろうか。それも人によるかもしれないが、目の前で放っておけば医者でなくても一生悔やむだろう。「お前の悔みなんか知らねえよ」って言われると思う。僕も同じ。お前の悩みなんか知らない。僕は、その人が死にたいという気持ちは否定しない。つらいこと、苦しいこと、いろいろあると思う。僕の知っている気持ちとはまた別物だろうし、僕には理解することも解決することも救うことも背負うこともできない。死こそが残された唯一の救い、本当にそうかもしれない。それでも死ぬな。お前は自分のために死ぬな、この場の俺の気分のためだけに生きろ。だから言ってるだろう、エゴだって。話ぐらいだったら聞いてやる。何の解決にもならないのは知っている。でも死ぬな。僕は無能で、そうやってなんとか止めようと努力する以外に為す術がない。

僕は基本的には他人の意志を尊重したい。でもそれは僕のエゴが許容できる範囲での話だ。彼の自殺はその範囲を逸脱している。それによって多少の迷惑なら被ってもいい。でも僕を殺すとかはやめて欲しい。それをされると僕の親が死んでしまう。それも困る。それでも死ぬなと言う。そしてやはり僕に過剰な迷惑はかけるなとも言う。それが僕のエゴだ。それしかできない。

尊厳死を自殺と捉えるか。あれは何も宗教上の問題だけではない。非常に難しい。自殺に至る人と尊厳死にどれだけの差があるだろうか。死ぬ権利、権利という言葉が僕はあまり好きではない。権利というのは誰かが、基本的には国家が保証して初めて成立するものであり、国家が尊厳死を保証するなどということは僕にはよくわからない。助かる見込みがない人を目の前にして、僕は首を絞めることができるだろうか。それができないとすればそれは僕の弱さであり、許容範囲の狭さでもある。僕にもっと強い精神と肉体があれば、心の余裕と揺るぎない信念さえあれば。人の死と向き合うということは過酷だ。誰もが幸福な日々を過ごし、安らかな死を迎えることができればいいのにと思う。人はそう望んで政治を良くしようとしたり、医療技術の発達に勤しんだり、誰かの、誰をもの、全員の生と死が、少しでも不本意なものから遠ざかるよう努力している。献血や募金、寄付だってその賽銭のようなものだ。僕のエゴでは誰も助からないだろう。救われないだろう。でも本当にそれしかできないんだ。僕は決して満足していない。無力と知りながらやれることだけをやり、結局いつまでも自分の無能さに悔やみ続けるのだろう。