何よりも嘘をつくのが嫌だった

僕はよく一人で昼飯を食っていた。中学、高校、大学、会社員の時もパンなどを買って自分の机で一人で食べていた。誰かに誘われてついていくようなこともあったけれど、一人で昼飯を食べることは比較的多かったと思う。僕自身はそれを特に何とも思っていなかった。数年前に便所飯というのが流行って、なんであんな臭くて汚いところで飯なんか食うのだろうと思ったら、一人で食ってると人目が気になるからだそうだ。僕も気になったことはあったかもしれない。周りの人が「僕が一人で飯を食っている状況」に慣れるまでは変な目で見られるから、その間は少し気になる。でも周りが慣れてくれたら敢えて変な目で見られるようなこともなくなる。それまでの間だけだった。僕は友達という友達もいなかったから、組を作ったりグループを作ったりする時はいつもメンバーが違った。全く一人きりのことも多く、それでいいですと言うことも多かった。不憫に思ってか声をかけてくる人もそこそこいたが、別に恩を感じたりはしなかった。一人が当たり前だから。

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僕は体裁を取り繕うということが嫌いだった。表面上を繕うのがめんどくさかった。つまり、嘘をつくのが嫌だった。だから友達でもない人と友達のフリはできなかった。仲良くない人と仲良いフリや、興味ない人に興味あるフリ、一人なのに一人じゃないフリ、わかっていないのにわかるフリ、共感できないのに共感したフリ、そういうことができなかった。そして仲間じゃない人に仲間外れにされたところで、何も感じなかった。そんなことより僕は、本質を最も大事にしていた。筋を通すことに重きを置いていた。正しいか、間違っているか、そのどちらかだった。理にかなっていれば取り入れ、そうでなければ無視したかった。それ以外の無駄なこと全てに関わりたくなかった。楽しむため、人間関係を円滑にするため、お金のためとか仕事のためとか、そういった別の目的のためにつく嘘は詐欺であり、詐欺行為によって本質を掻き乱すのは下劣なことだと思っていた。

そういった子供の頃の仲良しこよしの話なんていうのは大した問題ではなく、大人になれば誰も何も気にしなくなる。ただ僕は元からそんなだったなあということを思い出したに過ぎない。そして僕が会社を辞めた理由の一つとして、嘘をつかざるをえない状況に耐えられないということがあった。実に子供っぽい。体裁を取り繕うために嘘をつく。会社からも嘘を求められる、取引先からも嘘を求められる、そこに本質はなかった。もちろん社会だから公然と嘘を要求したりはしない。建前というやつだ。そして大人ならそれを自然に当然にこなすだろう。それが組織であり、機構である。それは仕方がなく、そうやって世の中が回っている。嘘を無理に事実にしようとすることは体を壊すほどの離れ業であり、そんなことはせずとも周りはみんな嘘をついており、人は体裁の良い嘘を求める。そしてみんなそれが嘘だということもわかっており、形だけで中身が無い。そんな場所にはいられなかった。でも会社が嘘をつくことをやめたら、嘘を求める顧客は他に流れるだけの話であり、それはある種の社会構造だった。嘘という名の責任の元に有利な立場を握ろうとする客、仕事さえ取れたらいい会社、それでも僕が行っていた会社はまだ無理難題を跳ね除けていた方だった。過労や病気で毎年何人もの社員が辞めていたから。

社会性とか、社交性とか、協調性とか、共感とか、そういうのは全部僕にとって嘘だった。僕は生まれてからずっとそういうものを持ち合わせていなかったから。訓練をして得たものもというのは単に表現の仕方だけであり、中身は変わらない。それで許されることもあれば許されないこともあった。見た目だけ、上辺だけ、中身の無い、形だけの、建前を取り繕うことはそんなに大切なのだろうか。何故それを大切だと考えるのだろう。ずっとそれが理解できない。本質を見抜けない、騙されるバカを良しとし、それを食い物にする世の中だから?みんな見抜いていると思うけどなあ。そして体裁だけを取り繕う。僕が他人との協調性なんかを持ち合わせていたならそれも理解できたのかもしれない。

そして僕は、何故そこまでして虚構を嫌ったのだろう。時には嘘だって必要で、必ずしも悪い物でもない。みんな嘘をついており、その認識もあるんだったらそれはある意味で嘘とも言えないではないか。僕は何も正義感とか誠実でありたいとかそんな理由から嘘が嫌いなわけではない。自分が他人に嘘をつかれたら嫌だとか、そんな風に他人に理由を求めたりもしない。ただ、僕が嘘を嫌うのは、嘘が誰でもつけるからだ。都合のいい嘘なんて誰にでもつける。上辺だけの、虚構を取り繕って全く中身が無いということは、そこには虚だけが存在し、もはや誰もいない。嘘をつくんだったら誰だっていいんだ。その場に沿った意見に合わせられるのであれば特定の誰かである必要はない。僕である必要もない。そこに個人は存在しない。個の存在は必要ない。僕が嘘をつきたくないのは、自分が自分でありたかったからなのだろう。他の誰でもない自分の存在というものを、嘘という誰であってもいい意見でぼかしたくなかったのだろう。それは別に、世間に自分という個の存在を認めさせたいとかそういう意味ではない。逆だ。世の中の誰もが僕を認めなかったとしても、僕自身だけは、嘘のない自分を認めてやりたかった。だから僕は、僕に嘘をつきたくなかった。嘘をつき、上辺を繕い、虚構を吐き、自分の意見を失い、自分を見失ってしまったら、それはもう僕という人間の死を意味した。僕は僕でありたかった。