人から変わっていると言われる5つの特徴

よく人に「変わっている」と言われてきたことについて、今までにも散々書いてきた。生活感がないとか、何を考えているかわからないとか言われることもあり、僕がゴミを出す話をした時「お前ゴミとか出すの…?」とか、スーパーで買物する話をした時も「川添さんもスーパーとか行くんですか…?」なんてことも言われた。

変わっていたとして、だからなんだということを今までには書いてきたように思う。では具体的に人は僕の何を見て「変わっている」と言ってきたのだろう。その中でも例として挙げやすいのを今回は選んでみた。本質を突いてはいないけれど、僕が変わっているんじゃないかって、思われるきっかけというのはこういった些細なことからだったりする。

 

テレビを見ない

今となってはもう、テレビを見ない人なんて珍しくない。僕がテレビを所有しなくなってから6年ぐらい経つのだろうか、そもそもテレビを処分した理由が、あっても見ないからだった。その時から1ヶ月に1時間見るか見ないかだった。処分してからは、たまにyoutubeなどで違法アップロードされているテレビ番組を見る程度。

小学生の頃は深夜番組をよく見ていた。僕が見ていたのはほぼお笑い番組だった。すんげーベスト10や暴ロンブー、めちゃモテとか、電波少年もリアルタイムで見ていた世代だ。中学生ぐらいまではテレビをよく見ていた。高校ぐらいから見なくなったように思う。大学生の頃もテレビはゲームとDVDのための画面だった。

だから人気のテレビ番組はおろか、最近テレビに出ている人の話などをされると全くわからない。一発屋芸人なんかは僕が知る前に、知ることなしに消えていってしまう。タレントなんかも昔から出ている人は知っているけれど、ここ5、6年に出てきた人は顔も名前も知らない事が多い。僕の中では上岡龍太郎も島田紳助も現役であり、松本人志はムキムキでもなければ金髪でもない。有吉は猿岩石の人だ。その昔「楽しんご」っていうお笑い芸人なのかなんなのか、そういう人がいたと思う。5年ぐらい前だったかな、この人のパネルがパチンコ屋かなんかの前に立ててあり、僕は本当にこの人を今田耕司だと思っていた。僕はこの人がテレビに出ているところを一度も見たことがない。もうこの例えを出す時点で既にズレているんだけど、こういったテレビに出る人について「そんなの事も知らないの?」ということとなり、世間とのズレから変わっていると言われる結果に至る。

電話に出ない

電話に出ないのは、はっきり言うと電話が嫌いだからだ。電話の音が嫌いであり、その話は以前にも書いた。電話に限らず中身の無い話をする無駄な時間も嫌いだ。そして電話で延々と話す内容なんてのは基本的に中身の無い話だ。電話ばかりしている人や、中身の無い話を延々としている人を見ているとウゲッっとさえ思う。

そもそも「お喋り」が嫌いだ。喋るのは必要があって喋る。暇つぶしで延々と喋ることはあっても、喋るのは手段でしかなく、喋ることが目的になることはない。どう言えば伝わるだろう。例えば読書みたいなもんだ。僕は本を読む事自体は好きじゃない。めんどくさいしすぐ飽きる。でも書かれている内容を読み解くために読書をする。だから、活字中毒ではない。たまたま本という媒体が優れており、そこに書かれている内容が音楽や映画では得られないものであるから仕方なく読書という手段を用いる。だから読書そのものは好きじゃない。それと同じで、僕は喋ること自体は好きではない。必要がなければずっと黙っている。喋っている人はうるさいと感じるし、お喋りが好きなんていう人とは合わない。だから電話に出ない。そういう説明はしないけれど、なんか変だと思われる。

これは完全に愚痴なんだけど、今シェアハウスに同居している人で1日中ずっと誰かと電話していたりLINEかなんか携帯の音を鳴らしている人がうるさくてしょうがない。その電話をひったくってトイレに流したいぐらい鬱陶しいけれど、さすがにそれはできないから、部屋で音楽を爆音で鳴らしてその電話の音が自分に聞こえないようにしている。

食べることが好きじゃない

「食べることが好きじゃないなんて、人生の半分ぐらい損している」みたいなことはお決まりのように言われた。子供の頃に好きな食べ物を聞かれたりすると、無いから毎回違うものをてきとうに答えていたら、それを信じたり覚えていたりする人がいて、僕自身はてきとうだったから答えたこと自体忘れていたこともよくあった。「おいしい」とか「うまい」とか本当に言わない子供だった。でも子供って食べ物がおいしいとかあまり感じないもんだよな普通。そう思っていた。どうなんだろう。大人になって変わったかというと、味覚は確かに変わり、うまいってこういう事かと実感するようにはなったものの、好き好んで何かを食べたりはしない。同じものばかり食べたりしていると好きだと思われるけれど、単に選ぶのが面倒だから。好きでもないものを好きだと思われるのも嫌で、わざと色々食べたりもしていた。自分の好みはどうだとか、人に勝手に思われるのはめんどくさい。

基本的に食べることは苦痛だった。僕は摂食障害などではないけれど、消化が遅く、量もたくさん食べられない。子供の頃なんかも食事中、僕がいつも気持ち悪そうにしているから親はいつも「無理して食べなくていい」と言っていた。食後に吐いたりもよくしていた。運動すれば必ず吐くし、酒と同時に食事をすれば決まって吐く。それがとてもしんどい。味がどうとか全て台無しになってしまう。いわば恐怖の対象だ。

僕は今たまたま外国にいて、日本の良い所というのは外国に比べて食事が断然おいしいという点だけだということを知った。僕にとってそれは何の価値もないことであり、日本に対してますます残念な気持ちでいっぱいになる(日本が嫌いとかではない)。

楽しいことが好きじゃない

これも前に書いた。まず基本的に人と集まったりするのが好きじゃない。うるさいのもガヤガヤしているのも嫌いだ。まとまりがないのも段取りが悪いのも嫌いだ。協調性も無い。だから、人が楽しいと思うようなことは基本的にあまり好きじゃない。一体感とか人生で一度も感じたことがない。こういうのは僕が経験してこなかっただけというのもあるのかもしれないけれど、やはり経験したいとも思わない。どうでもいいけれど、面白いことに性格占いなんかでことごとく協調性が無いといった結果が出ていたりするから、あながち「経験したことがないから」なんていうくだらない理由ではなく、誰かと協調することが合わないんだと思う。僕が好きな言葉として「賢者は歴史に学ぶ、愚者は経験に学ぶ」を今まで何度も挙げているように、経験至上主義は頭の悪い人間の発想だと思っている。嫌いなもんはやらなくても嫌いだし、好きなもんには自ずと興味が湧くものだ。やらないとわからないのは頭が悪いから。ただ僕は同時に「愚か者には福がある」とも思っているから、愚かであればあるほど人生は楽しいんじゃないだろうか。

話がそれた。つまり、誰かが楽しいと思っているときは、大抵自分は楽しくない。それは何も人が楽しんでいることが気に食わないなどという意味ではなく、単に感覚が合わない。自分には自分だけの痛み、苦しみ、楽しみがあり、他の人とはとことん合わない。だからあの人は楽しいことを何一つ知らない変わったやつだなんて言われる。

幸せになりたくない

「幸せになんか、なってどうするんですか?」というようなことを僕はよく聞いていたと思う。特に女の人が揃いも揃って幸せになりたいなどとほざくから、それに何か意味があるの?価値があるの?というように。「じゃああなたにとって幸せってなんですか?」と聞くと、大体は日常生活の平穏が答えとして返ってきたように思う。もしくはテレビなんかで見かける昭和の模範的な幸せという虚像。働いて疲れてうまいものを食べて、風呂に入ってセックスしてたまに温泉なんか行ったりして、友達がいて家族がいて、そういのが幸せ?なの?かな?僕にはちょっと異次元過ぎて理解できない。そういう幸せもあるのだろう、とは思う。ただちょっと遠すぎて実感もクソもない。僕から見れば望むも何も完全に別世界だ。僕はやはり、生きていくことは多くの痛みと苦しみ、哀しみを伴うものであり、そこからいかに逃れるか、いかにして克服してくか、そういうもんだと実感している。敢えて苦難の道を選ぶなんていうめんどくさいことは今まで一度もしてこなかったけれど、幸せになりたいっていうのはもっと違う。地獄こそが人生だと思う。

例えば、人生が物語だとしたら、初めから終わりまでずっと面白い楽しいみんなと一緒に幸せなだけの物語もあるだろうし、人はそういうのを望むのかもしれない。具体的にどんな作品があるかは思い浮かばないけれど、現実はもっと過酷だから希望としてそういうのを持つのだろう。僕は違った。もちろん現実も違うけれど、僕はやはり、つらい思いをしてこそ人生だと思う。人の痛みをわかってこそ見えてくるものがあり、あらゆる過酷な局面に曝され、苦しみ藻掻く姿こそが人間の生きる姿なんじゃないかと思う。ただ僕なんかは身も心も弱いから限度も低くてすぐボロボロになってしまう。人を壊すほどの過度な痛みや苦しみは避けられるべきであると思うし、排除していくべき環境だと思う。誰かをそういった環境から救うのだって人生だろう。それは苦難の道であり、決して幸せではない。そしてやはり「幸せになりたい」はちょっと違うと思う。一言で言うと、クソつまんねえ。幸せは自ら求める類のものであろうか。誰かを導くものではないだろうか。どうなんだろう。

あ、もう一つあった。5つって書いてから無理矢理5つ探したけどもうひとつあった。これは説明しないから気になったら参照してください。常識がない。

変わっているというよりは捻くれているというか歪んでいると言ったほうが正しいかもしれない。ただ現実にこういったことを説明するわけではないため「そんなこと言うなんて変わってるねー」で留まってくれているだけなのだろう。これらの要素って自分で治せるものが一つもない。興味ないものは興味ない。嫌いなものは嫌い。どうしようもない。