社会の枠組みを考える

枠組みが出来上がっているのは便利だ。前例があり、経験の蓄積があり、予めそこにルートを描くことが容易だ。例えば学校。学校とは、国家やそれを取り巻く国際環境が作った枠組みであり仕組みと言える。学校で起こる出来事というのはある程度予測できる。そして、学校を経た結果というのもある程度予想できるようになっている。基準値が定められた範囲で学習が認められる環境を提供され、尚且つ学卒という認定により、厳密に個人の技術、能力を問わない形で職業に就くことができる。それを求める人達によって作られた構造が学校であり、その過程を経たのだからその先も用意されていて当然と言える。この構造は企業においてもある程度機能する。

 

では、なんのために枠組みにおさまるのか。前例や人に則った生き方しかできず、なんのためそうまでして他人に認められ、既に敷かれたレールの上を歩くのだろう。それは言うまでもなく、生きるため。もっと言えば子孫繁栄のためとなる。自らの子が飢えることなく、より良い種を残すための適度な教育や環境、そういうものを得るために過去に従う。それが最も安心で安全なやり方だから。家とか車とか家庭を持つとかそういったことは全て種の存続、及び繁栄に帰結する。それは人間も動物だから自然な結果と言えるだろう。未知で予測もできないものを避けるのは自然な反応だ。

しかし、枠組みというのは人工物であり、人や社会といった生き物と同じように変化はしてくれない。世の中は常に変化しており、枠組みを上手く機能させようとするためには世の中に応じて枠組みも常に変化させ続けねばならない。人口動態なんていうのはその典型であり、外国との関わり方や技術革新、20年規模で続く戦争もあれば、土地や国家の姿形まで変えてしまう天災なども大きく影響するだろう。枠組みは完全ではない。環境に合わせて変えていかなければならない。そうやって枠組みをなんとか形にしようという新しい試み、もしくは古い試みが数々なされていく。

今ある枠組みが自分に合わないと思ったら、まだ成し得ていない自分に合いそうな枠組みを探し、そこに挑戦するという手段がある。芸術家なんかは枠組みがあっても才能やプロデュース面でばらつきがあり、少なくとも学校や会社のように入口も出口も広くない。だからこそ、親の反対にあったりする。安定した暮らしができないとか、どうやって家族を養っていくのか、とか。仮に国家によって生存の保証がされていれば、健康で文化的な最低限度の生活が約束されていたなら、多くの人が挑戦し、また周りの多くの人も応援するだろう。それでも成功する人は限られている。

高学歴から一流企業に就職するだけでなく、あらゆる分野において枠組みは存在する。それらは完全ではなくとも、限られた条件において紛れもなく正しい手法だったりする。そこから外れる新しい別の枠組みというのは、理論が確立されていなかったり時間を経ていなかったり成功例が極めて少なかったり存在しなかったりと、玉石混交のリスクは高い。それでも今の枠組みが合わないのであれば、新しい枠組みに入り込むという手段もある。そこで判断しなければいけないのは、どっちがいいか?

既にある枠組みというのは、おそらく枠組みから外れた人をなんらかの形で拾う仕組みだって存在する。枠組み内で大成できなかったとしても、列記とした枠組みの中で培われた経験が関連業務で評価されることだって多い。「枠組みの中にさえいれば安心」というような発想はこういうところからも来る。大企業なんかはその典型だ。つまり、食うには困らない何らかの脇道が見つけやすい。新しい枠組みにはそういうのがまだ無い。少なくとも他人から評価されるには、相手に無い基準で評価されるという極小の可能性か、もしくは自分から売り込んでいくしかない。これが非常に大変で、だからこそ新しいんだろうけど。

もう一度問い直さなければいけない。今の枠組みは、生命や健康、人格または周りとの関係性を著しく悪化に導くものであるか。果たして本当に枠組みから出る覚悟があるのか。枠組みから出たほうがましだと言い切れるか。それは自分にはっきりと問わなければいけない。現代は残念ながら生命や生活、尊厳の保証がされないため、自分で判断しなければいけない。誰も責任は取らない。もし既存の枠組みの中でも日々死んでいくだけなら、いつまでもそこに留まる理由はない。枠組みを変えるなんてことは果たして可能だろうか。難しいからみんな失敗する。失敗するとしたら、失敗の仕方とか失敗の先が肝心になってくる。成功したらおめでとうとしか言い様がない。それでも失敗はする。

中には、既存の枠組みも今作られている途中の枠組みも全部振り切って、自ら枠組みを作ろうとする人だっている。それはThink DifferentのCMまで行かなくても、身近な部分から新しいルールを作ろうとするようなそんなマッチョな人たちは存在する。例えばなんだろう、今流行りのAirbnbなんかはニューヨークの地下鉄にバンバン広告を載っけている。あの形式はアメリカでも違法だったとどこかで読んだ。詳細は知らないけど、違法だったものをマンハッタンの地下鉄にバンバン広告載っけられるようにするなんて、これは完全にルールを変えたと言えるだろう。世の中を見渡して、自分を、自分のアイデアを収める枠組みが見当たらなかった時は、自分でそれを構築するしかない。あの発想を既存の枠組みで行っても世に広まらないどころか、社内での新規案件として絶対に通らない。

そして、そんなことはまあ、そこいらにいる一介の人間にはできないもので、大抵の人は既存の枠組みと現状との歪にもがき苦しみつつもそこから出るという考えはない。そこが一番安全で、安心で、信頼できるから。そして幸せな家庭を築いていく人もいれば、その中で失敗する人も大勢いる。どこにいても危険はあり、完璧はなく、突き詰めればどっちがましか、適性と確率の話になるだろう。よく言われる「死ぬ気でやればどうにかなる」という言葉を僕はあまり信じておらず、実際それで死んだ人も多く、それは既存枠組みの中でも外でも言えることで、何が正しいとか間違っているという話でもない。「いっちょ死んだつもりで心機一転」というのは僕にとって非現実的な話に聞こえる。それは選択を履き違えているんじゃないだろうか。選択は生きるために行う。

何のために枠組みにいるのだろう。生きるため、子孫繁栄、そういうのは無意識下にあったとして、表面上はせいぜい幸せとか、生きがいとか、生活の安定というところか。繰り返しになるけれど、既存の枠組みの中にいたほうが自分は安全で安静で平和なのかもう一度問い正し、もし枠から出て新しい枠を見つけたのなら、それを十分に把握しているか。それでも失敗する覚悟はできているか。立ち上がる覚悟はあるのか。大切なのは、強いて言えば自分の選択に後悔しないことだろうか。

最後に、生物の業を断ち切ることができるか。生物は存在し始めてから子孫繁栄以外を願ったことがないだろう。人間以外の全ての生物がそうだと思う。それ以前に動植物が願うかってことはともかく、人間であればその業を断つことができる。すなわち、より良い種を残すこと、ここから外れてしまえば家庭を顧みる必要どころか家庭を持たなくてよい。そうなってくると、人生の捉え方が大きく変わってくる。良い家庭、良い仕事、良い暮らし、そういったものは全て種を残すという前提に大きく関わってくる。家庭から明日の力を得るという考えも否定はしないけれど、そんな雑念にとらわれなくとも絵を描きたい人は売れなかろうが描き続ける、生活が苦しかろうが描き続ける、アイデアがあればスタートアップ、誰にも彼を否定することはできない。音楽や芸術に限らず学術的な研究など、死ぬのが怖いとか生活苦に耐えられないとなれば実生活との折り合いをつけるためにどこかで既存の枠組み等に乗っかることはあるかもしれないけれど、彼の生きる目的は種の繁栄という生物の枠組みの外にある。それも人の生き方だと思う。もしくは、種の繁栄を真に社会に委ねることができたとしたら、その時個は大活躍するだろう。

そんなことをぼんやりと考えていた。今の自分は、既存の枠組み内では死ぬなーと思って逃げてきて、どこかの枠組みに収まることもできず、途切れ途切れのレールの上をブラブラしている。あまり人生に期待せず、恐れもしないでおこうと思う。