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14日目、スレブレニツァは見る場所じゃなかった

旅行

前回の続き

結局あまり寝ることができないまま、同室だったフランス人の女の人と僕は早朝からサラエボバスターミナルへ向けて歩き出した。バスターミナルは鉄道のサラエボ駅から郵便局の方へ歩いて裏側にあり、サラエボ駅自体は新市街の方へ歩いてホリデイ・インの北側にある。旧市街から歩いて30分ぐらいだろうか。そういえば昨日ホリデイ・インの近くにある博物館にも行ったけれど、あまり展示がなかったため敢えて行く必要はないと思う。バスターミナルまでの道は早朝ということもあり、ほとんど人とすれ違わなかった。

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早朝、サラエボ駅まで

「そうそうこんな感じ、ドゥブロヴニクで朝早く歩いた方がいいって言った意味がわかったでしょ?」

この時間帯はまだ日差しも弱く、気温もそれほど上がっていないため歩くのが心地よかった。僕らは日本人と韓国人の見分け方の話などをしていた。日本人であれば自分たちと同じかそうでないかはなんとなく見分けることができるけれど、ヨーロピアンには不可能でその特徴を話していた。ほとんどの場合において、タレ目だと日本人であり吊り目は韓国人だと思っていいとか、顔面に丸みがあって曲線が多いのが日本人で、平たく尖っているのは韓国人であるケースが多いとか、このあたりは傾向でしかないという話もした。あと僕らはそのファッションセンスで見極めたりする。流行り廃りが違うため、そのあたりでもなんとなく見分けがついたりとか。

https://instagram.com/p/4bcejcBvKt/

バスターミナルでフランス人と別れる

バスターミナルに着くと、僕はスレブレニツァ行きのチケットを買った。前に並んでいたブラジル人が「なんでバスのチケットを買うのにパスポート見せないといけないんだよ!これもバルカンテイストなのか?」などと愚痴っていた。多分彼らは国境を越えるからだろうと思っていたら、国境を越えない僕も見せろと言われた。スレブレニツァまでは23KMだったかな。この時は気付いていなかったけれど間違って片道を買ってしまい、往復を買うよりもかなり高くついてしまった。彼女はスプリット行きのチケットを既に買っていたためターミナルへ入場し、バスを待った。バス乗り場にはたくさんの待ち人がいた。彼女が乗る予定のバスの時間までには15分ほどの時間があったけれど、バス自体がまだ来ていなかった。15分経ってもバスは現れず、30分ほど待ってようやく到着した。待っていた人たちがバスに乗り込み、僕も彼女とそこで別れた。お互い気をつけて、これからの良い旅路を願い。

スレブレニツァ行きのバスに乗る

残された僕はベンチに座り、自分のバスが来るまで30分ほどそこで待っていた。待っている間僕は、先日Kindleで購入したSolarisを読んでいた。バスは時間前に到着し、僕は少し早めに乗り込んでいた。スレブレニツァ行きのバスは小さなもので、乗客もほとんど地元の人のようだった。観光で来ているといった風の人は僕も含め2,3人しか見られない。バスは時間通りに出発した。車内が思っていた以上に寒く、まるで飛行機の中のようだった。僕は長袖のシャツを持っていたものの下がハーフパンツであったため、リュックなどを足の上に置いて寒さをしのいでいた。スレブレニツァまでの道中は山道を何度も上下する。その途中途中でバスに乗ってくる人、降りる人がおり、このバスは観光用などではなく地元の人にとっての日常の交通手段みたいだ。

降りる場所を間違える

スレブレニツァまでは結局4時間ぐらいかかった。事前にネットで調べたところによると3時間程度という話だったにも関わらず、時間はかなりおして朝7時のバスが到着した頃には既に昼の11時頃だった。また、降りる場所もわからず、いわゆる虐殺記念碑があるポトチャリを僕は通りすぎてしまい、終点のスレブレニツァまで行ってしまった。途中墓がたくさん見えた場所がポトチャリであり、そこで降りるべきだった。終点でどうしていいかわからず途方に暮れたいたら、同じように途方に暮れていたムスリマの装飾を身にまとうアジア人がおり、話しかけられた。

「英語は話しますか?」

「少しだけ」

しかしお互いこの土地のことはわからず、同じく終点で降りた若い男性がいたけれど彼は地元の人のようで英語を話さないため、ポトチャリへの行き方を身振り手振りで聞いていた。終点のスレブレニツァからは3kmぐらいあるそうで、タクシーに乗らないと行けないということだった。僕らは早速タクシーに乗る羽目になった。こういう時は一人で乗るよりも誰かいたほうが割安になる。幸いにもこのあたりにはたくさんタクシーが走っており、すぐにつかまえることができた。スレブレニツァからポトチャリ(虐殺記念碑)までのタクシー代は7KM(約500円)だった。一緒に乗った彼女はマレーシア人でイギリスに留学してきているらしい。短期旅行でサラエボに来ているとか。

ポトチャリ

ポトチャリは、墓地だった。スレブレニツァの虐殺で殺された8000人以上の人々の墓がそこにまとめられていた。そして墓地以外に何も見当たらなかった。事前に調べていた情報によれば、ビデオがあったり見て回る場所があり3時間はポトチャリで過ごせるということだったけれど、どう見ても墓地だけだ(こういう墓の写真というのは撮りたくないため、写真は一枚も撮っていない)。僕は周りの人に聞いてみた。サラエボもそうだったけれどここでは尚更英語を話す人がいない。言葉は通じないながらもメモリアルルームというのがあるということを何とか聞き出した。墓地とは真反対にあるゲートの奥だそうだ。これは本当にわからないぞ。

https://instagram.com/p/4bdCfphvLQ/

ゲートの中に入ってもどっちに行けばいいのかわからない。建物というよりは、廃墟と化した工場があるだけで、そのメモリアルルームがどこにあるのかも全然わからない。とりあえず左へ進んで新しい建物の中に居た人に聞くと「ここは警察のオフィスだよ、メモリアルルームは向こう」と言われ、反対側の、ゲートから右側へと進んだ。案内表示も何もない。中が大きな空間になっているだけの工場跡地は、虐殺があった当時スレブレニツァの住民が集められた場所だった。その一つがメモリアルルームとして残されているようだ。中には十数枚の写真の展示と数点の遺品、その持ち主だった人の写真が展示されていた。来ている人は僕とそのマレーシア人と、あと数名だけ。メモリアルルームを出たところに居た観光客に声をかけてみた。

https://instagram.com/p/4bc20ohvLI/

「あの、他に見るところってあるんですか?」

「僕らも知らないんだよ」

「僕はガイドだよ」

スレブレニツァのガイド

後ろから丸坊主の男性に声をかけられた。非常に陰鬱な表情をしていた。僕は彼にこういうことを聞くのが気が進まなかったけれど、来て数分でこのスレブレニツァが終わりそうだったため聞いてみた。

「ビデオがあったりするって聞いたんですけど、他の場所もあるんですか?」

「ああ、向こうだよ」

指差された方向に僕が行こうとしたら、もう一人居るんだろと言われマレーシア人の彼女が出てくるのを待つことになった。僕の連れじゃないんだけどな。彼女が出てくると、僕ら3人はメモリアルルームからさらに敷地の奥へと入っていった。その道中でガイドの男性がスレブレニツァのことを解説していた。彼は僕と同い年ぐらいで、当時小学生ぐらいの頃に虐殺のさなかにいた。

「男性は集められあの山の向こうに連れていかれて殺された、奥に見えるあの青い建物では2000人ぐらい殺された。まだ遺体が見つかっていない人もたくさんいる」

この虐殺は民族浄化(英語ではエスニック・クレンジング)と呼ばれた。

https://instagram.com/p/4bcuYNBvK9/

彼は吐きそうな顔をしながら話している。僕は正直なところなんて返していいのかわからないが、マレーシア人の彼女はなんかどんどん質問している。スレブレニツァについて知っていたのは事前に見たドキュメンタリーとWikipediaの情報ぐらいだった。彼は体験者の目線で当時のことを語っていた。

スレブレニツァの虐殺 - Wikipedia

「着いたよ」

そこは新しい建物だったが外から見ても何なのか全くわからず、彼のガイド無しにはどう頑張っても辿り着けないものだった。鍵もかかっていた。中にはかなり大きなスクリーンと、当時のニュース映像や新聞記事が展示されている。

「じゃあビデオを始めるよ」

僕ら二人はスクリーンの前の席に座った。映像は30分ぐらいのものであり、GALERIJA 11/07/95やドキュメンタリー番組のものとは少し違った実録映像だけを集めたような印象だった。以前に見たことあった映像も多かった。映像が終わると、ガイドの彼は姿を消していた。どこを探しても見当たらないため、僕らは勝手にそこを出た。外にもいなかった。

スレブレニツァについて思うこと

スレブレニツァは虐殺から20年しか経っていないため、当時の生存者も多くいる。アウシュヴィッツと比べるのはどうかと思うが、まだ歴史の一部にもなっておらず、過去の延長の今としての姿が残っている。あそこは観光地ではなく、何かを学びに行く場所でもない、追悼と慰霊の場であると感じた。そのため、言い方は悪いが案内も全くなく中途半場に展示やビデオがある。どこかでガイドツアーみたいなのがあるのかもしれないけれど、それにしても何処が入り口なのかさえわからない状態になっている。ガイドの人もとても苦しそうだ。彼に過去の話をさせるというのはあまりにも過酷ではないだろうか。このよくわからない今の状態はやめたほうがいいんじゃないかと思う。案内や展示を整備してガイドをやめさせるか、完全に追悼と慰霊の場として残し、展示やビデオをやめるかしたほうがいいのではないかと感じた。

帰路

その後再びタクシーに乗り、バス停へと向かった。サラエボからのバスは朝7時発、スレブレニツァ16時半発でサラエボに戻れるこの1本しかないというのはネットで調べた情報と変わっていないため、スレブレニツァの小さな村で3時間ほど時間を潰すしかなかった。スレブレニツァは現在セルビア人のスルプスカ共和国に属し、セルビア人が多く住んでいるとか。

次回、15・16日目サラエボからモスタルへ