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ブログを消そうと思うこと

結構な頻度で、ブログを全部削除してしまおうと思うことがある。ここに書いている文章はなんというか、自分にとって恥の塊みたいなもので、読み返したりすると消したい衝動に駆られることが多い。今までそうやって削除してきたのは例えばmixiのアカウントとか、確かあれは会社員になったばかりの頃で、7年ぐらい前だったと思う。ブログについては3回か4回渡り歩いているけれどそれは必ずしもそういった理由からではなく、単にパスワードを忘れたりシステムが古くなって使いづらくなったとか、新しい別のサービスを利用してみたくなったということが多い。もしくは無料サーバーのサービスが終了したとか。基本的に今までのブログというのは実際の僕を知っている人に教えていなかったから(mixiはもちろん教えていた)。でも今のこのブログは親族も知っており昔の友人や知り合いにもガンガン教えている。元々隠していたつもりもなかったけれど、いつからか、いやTwitter経由で漏れてから「どうでもいいや」と思うようになり、自分が今までに調べた内容を誰かに伝える際めんどくさくて「ブログに書いているから気になったら読んでね」という形でURLを伝えるだけという手抜きをするようになった。幸いその後も継続的に僕のブログを読み続けてくれる知り合いはほとんどいないため、弊害というのは事実上無い。ただ、それでも「これが僕の頭の中だ」と銘打って公開しているというのはやはりきまりが悪いもので、ひどいことや恥ずかしいこと(創作とか)もたくさん書いているから、それを誰もが気にしないことはわかっていても、ただそこにあることに我慢ができなくなり、全て消し去って初めからなかったことにしたい衝動に駆られる。

元々僕はリセット願望が強く、人間関係においても今までほとんどリセットしてきた。しがらみ、と言えば聞こえが悪いけれど、つながり、みたいなのを生来受け付けない質で、常に誰も自分のことを知らない気にかけない場に身を置きたい願望があり、関係というのは全て、基本的には断ち切ってきた。それは意図的な事もあれば自然なことでもあり、もちろん向こうから切られることも多い。僕は人間関係を築くのが極端に下手だから、出来上がってしまった関係、関わりというのは総じて悪いものにしかならない。全て失敗する。こんなはずじゃなかった、というわけではないのだけれど、自分はやはり本質的に人に嫌われるようで、そういう関係を維持するというのはなかなか厄介でめんどくさくて大変だ。その反対に、好かれるということもそれはそれで大変でありつらいものだけれど、幸い僕はほとんど好かれることがない。常にニュートラルな状態を維持したいという願望から来るリセットだったりする。僕が何度も頻繁に引っ越しを重ねてきたものそういう理由からかもしれない。そしてそのこだわりは少し変わっているかもしれない。これは以前にも書いたけれど、僕は他人に印象を持たれるのが嫌いで近所のコンビニの店員に顔を覚えられるのも嫌だからなるべく印象薄い、存在感のない状態でいようとする。気軽に話しかけて仲良くなろうなどとは決して思わない。なるべく人に覚えられないようにしている。そして結構それが功を奏している。僕から誰かに連絡をすることはあっても、誰かから来るということはまず無い。いや無視しているだけか、そんなことはない。そんなことはしない。

その点旅行は楽で、旅先で会う人というのは余程のことがない限り二度と会うことがなく、変な言い方をすると「後腐れない」関係でいられる。薄っぺらい僕は、素の薄っぺらい人間のままでいられる。そうなると僕はフレンドリーであったり積極的になったりしてやはり地が出てやはり猛烈に嫌われるんだけど、後に続かないから気にすることもない。その場ではかなり落ち込んだりする。やはり嫌悪感を向けられるというのは気持ちのいいものではない。そして、ブログにおいても僕はやはりニュートラルを保てていない気がする。ここにいる自分は素以上のやや誇張さえしている自分ではあるけれど、直に人と関わることもなければここに書いた自分が実生活に何か弊害を来すということもない。結果めんどくさいことにもならない。そう思って書き続けてきたけれど、なんていうかやはり、改めて自分を見直すとすげー気持ち悪い。この気持ち悪さが他の人が感じる気持ち悪さとはまた違うかもしれないけれど、やはりこれは自分にとって恥の権化、恥の塊にしか見えない。それは文章が下手とかそういうこともあるけれど、それ以上になんだろう、この中身の無さ、というか、薄っぺらさ、やはり意図せずとも僕はニュートラルを目指して書いているようだ。そのニュートラルとは、僕の根本的な存在の希薄さから来ており、何かを目指そうとか、何か形あるものを残そうとかそういうつもりはないけれど、書いたものに生気が感じられない。ロボットか、死体か、ただそこにある自分の肉体がキーボードを叩いて出来上がった代筆の文章のようでもある。それは表現力の問題でもなく、やはりその中身の無さの問題だったりする。そういう自分をこれ以上見るのがきつい。やはり気持ち悪いから。不気味の谷ではないけれど、グロいとさえ思う。

これは本当に、脳波を書き留めたようなもので、僕は死んでいる、僕の心は死んでいるという風に見受けられる。いや、はたして、生きていた時なんてあったのだろうか。人形のようでしかない。僕の痛みや苦しみ、感動、それを現す言葉には実体がない。それを認識している自分も、さして大きく悩んでいるわけではない。ああ、こんなもんかって。自分という器はキャンプなどで使われるような透明のプラスチックのコップで、見分けもつかなければ使い捨て、劣化も激しく脆く簡単に壊れ、初めから持ってきていたことさえ忘れるような、その中に入れた液体を一時的に支えるための器でしかなかった。ゴミはゴミ箱へ、水は飲み込んだらなくなるもんだ。いつまでも残していたところで、

ただまあ消そうと思うことがよくある、というだけの話で、消してはいない。消す予定もない。予定を立てて消すもんでもないだろう、ブログなんて。こう書くと軽い死ぬ死ぬ詐欺みたいだけれど、これはただ気持ちの一つを書き留めただけの文章であり、やはりそこに中身はなく、意味は無い。突発的な自我の現れ、とでも言えば適当だろうか。