読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

頑張りたくない、認められたくない

やはり、頑張るのはちょっと嫌だ。頑張るのは面倒で大変でつらい。世の中には頑張ることが好きだという人もいて、自分にはちょっと理解できない。そういう人はそういう人でいいと思うけれど自分は違う。頑張ることが好きな人はおそらく「頑張っている自分が好き」なのだろう。僕は頑張っている自分が嫌いだ。頑張っている状態は僕にとっては無理をしている状態であり、なるべくならそういう状態を避けたい。頑張るという行為は自分にとって苦痛であり、負担でしかない。夢中になっているのとはまた違う。「頑張る」ということを意識せずに夢中になって何時間も作業したりするのは、自分には負担にならない。体の負担にはなっているかもしれないけれど、少なくとも心の負担にはならない。そういうのを頑張るとは呼ばない。むしろ楽しんでやっている。

もしくは、人は「頑張っている自分を誰かに認めてもらいたい」のかもしれない。どうなんだろう。自分にはそういう願望が全く無いからよくわからない。まず、人に認められることがあまり好きではない。それはやはり、他人は他人であり、自分ではないからだ。承認欲求という言葉がよく使われているけれど、人は他人に認められて嬉しいのだろうか。他人に認められたところでそれが何になるのだろう。評価になる、名声になる、カネになるのか。他人よりも自分が認めることの方が重要ではないだろうか。どうも、そう思ってしまう。人がどう思おうと、自分が納得できればそれでいいじゃないか。むしろ人にどれほど評価されても、自分が認められなければそれはやはり自分にとって無価値ではないか。他人がどれほど喜ぼうと、悲しもうと、怒ろうと、人は人だ。人の評価は所詮人の評価だ。自分には関係ない。僕は社会生活に向いていないのかもしれない。

自分が認める人に認められると、それは嬉しいのかもしれない。その分野において尊敬する人、師と仰ぐ人、自分よりも高みにいる人たち。自分では評価できない領域において自分以外の人が価値を見出すというのは、自分にとっても誉あることなのかもしれない。どうだろう。やはり自分がそれを良しとしないのであれば、それは自分にとって無価値であるようにも思える。他人に評価されて嬉しいか?

それはもしかすると、共感なのだろうか。自らが認めるものを他人も評価した時、彼は、自分を、少なくともその一部に見いだせる何らかの欠片を理解したのではないかと勘違いするのかもしれない。その瞬間に自分と彼は通じあったような、すなわちそこに共感が生まれたような感覚に陥り、それが嬉しいのかもしれない。お互いに価値を見出した時、そこに込めた自分をわかってもらえたような誤解。彼は彼なりに、彼の感覚において価値を見出したに過ぎないにも関わらず、そこに互いが通じる某かを感じ取った気になれるのかもしれない。そこに同じものは無いにもかかわらず、その一つの共通項を取って、私と彼は通じ合ったという錯覚。それが他人に認められるということだろうか。

承認欲求というのは、自らの孤独を他人と通じ合うことで埋めようとする寂しさの現れなのかもしれない。それはやはり、僕にはちょっと理解できない。

ミュージシャン、作家、映画監督、芸術家など、自分の込めたものと他人の評価に差異があり「俺が言いたかったことはそうじゃないんだよ」という風に答えている姿をよく見かける。メッセージ性が高ければ高いほど、伝わる印象は受け取る側によって大きく変わる。受け取った側からすれば、それでわかったような気になる。自分のために作られた物語のように見えてくることさえもあるそうだ。それは大いなる誤解だ。

しかし安部公房なんかは「小説は地図のようなものであり、そこにある様々な情報をどう見出すかは読み手に委ねられる」というような発言をしていた。彼は彼なりに伝えたかったこと、込められた思いがあったかもしれないが、彼が言うにはそれを自由に捉えていいという意味になる。作品とはそういうものであり、意味合いを一面的に決めてしまっていいものではないというような発言をしていたように思う。そこにはやはり、彼らなりの捉え方は存在したとしても共感は無いように思う。彼は、自分が自分で書いたものに満足していれば他人がどう評価しようとどうでもいいと思っていたのかもしれない。

もし共感という概念そのものが誤解や錯覚を指すというのならば、それは実に空虚で悲しい現実にも思える。