「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」感想・書評

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読んでいたとき、最初の方で強く違和感を覚えた。この本はプロテスタントの禁欲主義が資本主義を産んだとか育てたとかそういった内容であり、その理屈はよくわかったんだけど、現代を生きる僕らにとってその禁欲主義と資本主義がどうしても結びつかず、何故こうも乖離してしまったのだろうというのが僕の違和感であった。そしてこの本の最後の方にはマックス・ヴェーバー自身がその乖離について嘆きのような文章を書いていた。

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禁欲が世俗を改造し、世俗の内部で成果をあげようと試みているうちに、世俗の外物はかつて歴史にその比を見ないほど強力になって、ついには逃れえない力を人間の上に振るうようになってしまったのだ。今日では、禁欲の精神は―最終的にか否か、誰が知ろう―この鉄の檻から抜けだしてしまった。ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。禁欲をはからずも後継した啓蒙主義の薔薇色の雰囲気でさえ、今日ではまったく失せ果てたらしく、「天職義務」の思想はかつての宗教的信仰の亡霊として、我々の生活の中を徘徊している。(p365)
プロテスタンティズムの 倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの 倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 

将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか

「やっぱりそうだよね」といったふうに最後まで読めばこの違和感について納得がいった。プロテスタンティズムの倫理は資本主義の土壌、基盤を育てるにあたって有効に作用しただけであり、現在はその倫理から遠く離れている。アメリカなんかにおいてミリオネアが多額の寄付をする習慣はもしかするとこのプロテスタンティズムの倫理の名残なのかもしれないけれど、それにしても多くの点において印象は一致しない。ではその後、特にアメリカを中心とした資本主義は、その発展をもたらしたプロテスタンティズムの倫理から離れ、どこを拠り所にしてしまったのか。

それは本の内容に既に予言めいた言説がある通り、ある種明白である。一応その答えというものをちょっと検索してみた。そして一つの意見が提示されているのを見つけた。資本主義は合理的・市民的な経営と労働の合理的組織というピューリタニズムの倫理を離れ、政治あるいは投機を指向する「冒険商人」的資本主義、つまりユダヤ賤民的資本主義にその拠り所を移した。これほど印象と一致する意見は無いだろう。現代を見渡せばまさにそのままだ。

プロテスタンティズムの倫理は失われたのか

Googleで検索して出てきたのは大転換という佐伯啓思という人の書いた本の中身であり、僕はその本自体は読んでいない。そこには資本主義がアメリカにおいてプロテスタントの倫理を離れ、ユダヤ的資本主義へ移行する過程が載っていたため引用する。

ドイツ型資本主義の中では、伝統的な職人的技術がモノづくりを決定的に支えている。経済は、技術的なものへと志向する。しかもその場合の技術は、いくら大規模な機械制になったとしても、基本的に職人的な技や精神に支えられた技術なのである。このような経済観念のもとでは、「消費者の満足」という観念に代わって、「そのもの自体の根源的なよさ」という観念のほうが支配的になるだろう。
しかしアメリカにはそれが希薄だ。徒弟制度のものとで職人的なものへの志向はもともと存在しない。だからこそ、結局アメリカにおいては、自分の経済的能力を評価するものは、消費者しかいないのである。消費者がどれだけ金を払おうとするか、ということしか評価基準がなくなってしまう。確かにそれがアメリカ資本主義を発展させる重要な契機になっている。しかし、この経済観念は一歩延長すれば、ユダヤ的資本主義のような別種のものへと移行してしまうだろう。モノづくり固有の卓越性の追求から消費者の満足の追求への移行は、禁欲的な労働倫理から利潤追求の精神への移行と対応している。こうして、プロテスタントの倫理に支えられた「市民的資本主義」が、ユダヤ的金融資本的な「賎民資本主義」に飲み込まれていったのが二〇世紀なのであった。(p137-138)

※プロテスタンティズムにおける職業倫理は第一に道徳的基準、第二に全体に対する重要度、第三に収益性を掲げていた。

大転換―脱成長社会へ

大転換―脱成長社会へ

 

僕自身はその「ユダヤ的金融資本的な賎民資本主義」というのも聞きかじった内容から来るイメージしかなく、実情がどうだとかユダヤ人が実際にどのようにしてそれを考え、とらえ、運用してきたかというのをよく知らないから、そのユダヤ人的発想が良いとか悪いとかっていうのはよくわからない。ここはもっとユダヤ人側にも立った見識を得てみたいと思う。

話は戻り、現在アメリカを中心とする資本主義界隈において、この"移行"は本当に起こってしまったのか。印象としてそう見えるだけであり、今でも一部の起業家などにおいてプロテスタンティズム的な市民的資本主義が生きているのではないか。そして彼らは今でもその、いわゆるユダヤ賎民資本主義と戦い続けているのではないか、そう思えなくもない。アメリカの企業などにおいては日本の企業と違い、その資本や支配権の拡大よりも「理念の追求」を第一に掲げ、それを実行しているように見える例も少なくない。これはまさにプロテスタンティズムの倫理にあるように、彼らがその理念を「神の天職への召命(calling)」として受け取り、実行している姿に見えなくはないだろうか。