「やあ冴子、お前と会うのも久しぶりだな。僕たちは前世でも会っているが、現世でもこうやってまた巡り会うことができた。これも前世の縁が強かったからに違いない。現世で僕は君の父だ。そして君は僕の娘、冴子として生まれてきた。よろしく頼む。」

私が生まれた際、父が初めて私にかけた言葉らしい。もちろん私はそんなことを覚えておらず、後になって母から聞いた。私の父は厨二病だ。母はそんな父を暖かく受け入れる。私が幼い頃、母にこう言われた。

「冴ちゃん、お父さんの言うことが正しいか間違っているかは自分でよく考えなさいね」

これが母に言われた最初の言葉として記憶に残っている。当時私はその言葉の意味を上手く理解できなかったけれど、今になるとわかる。それは決して「父が変なことを言っているけれど気にしないように」というような父を責める言葉ではなく、かと言って「父が変なことを言ってようが私は知らないよ」というような他人行儀なものでもなかった。母は母で父を認めており、なおかつ同調しないという立場をとっていた。両親の教育方針は「自分で考えさせる」というものだった。父は私にいろいろな問を投げかけた。母は私が聞いても決してその答えを出そうとはしなかった。それは曖昧に流すとか、はぐらかすというものでもなく一応彼女なりの意見を言った上で必ず「冴子はどう思うの?」と聞き返してきた。だから私はいつも父や母の問に対して考えるようになった。父は幼い私に対して、いつも容赦のない問を投げかけていた。

「冴子は『時間が無い』という言葉についてどう思う?」

「どうって?」

「時間は有ると思わないかい?」

「ええっと、無かったんじゃない?」

「時間が無いという状態は、父さんからすると真に何も無い状態だと感じるんだ。時間が無ければそこに何も存在することができないだろ?だったらやはり時間はあるんじゃないかな」

「うーん、『割く時間が無い』っていうことじゃない?」

「そうなんだよ、そこだよ僕が言いたいのは。時間というのは果たして定量化できると思うかい?僕はそうは思わない。時間は有無でしか現せない。時間が無であるということは、そこに存在できない。時間の概念なしには何も存在できないからね。時間が存在するからそこに有が生じるんだ。時間の概念が有るか無しかで、『割く時間』なんていう概念がそもそも存在しないんだよ」

「よくわからないけれど、10分足りないとかそういうことじゃない?」

「10分足りないなんていうことが存在すると思うかい?人間は、生きている限り時間が有るんだ。死んでしまえばそれは無だ。そこにあるのは有と無だけだと思わないかい?」

「間に合わないとか」

「間に合う?間に合うかどうかを時間で測れると思うかい?僕はそう思わない。そこに10分足りていようが足りていまいが、間に合うときには間に合うし、間に合わないときには間に合わないもんだよ。時間を定量化することに意味はないんだ。例えば、悟りを開くのに50年修行しても、その50年には意味が無いんだよ。この50年というのは初めから無かったのと同じなんだ。悟りを開いた一瞬にだけ意味がある。ある人の5年と別の人の5年が同じ意味を持つと思うかい?もしくは同じ人の5歳から10歳と、10歳から15歳のそれぞれの5年間が同じ長さだと思うかい?違うんだよ。時間を定量化したところで見えてくるものというのは何も無い。時間を測ったところでできることは、待ち合わせぐらいしかないんだ。そうなると大切なのは時間ではなく時刻だ。今、何時であるか。あと何分といったような量ではない。そう思わないかい?冴子はどう思う?」

「えっと、電車とか、間に合わないことあるよ」

「そう、それは時刻が大事なんだ。時間の量ではない」

「でも歩いたら間に合わないけれど、走ったら間に合うとか、あと10分あれば間に合うとか」

「時刻に自分を合わせればいい。有るのは『今何時であるか』だけだよ。もしくは間に合わなくとも電車は来ないこともあれば、待っているとまた乗ることもできる。時間の量を測らなくてもよいと思わないかい?」

「うーん、お父さんが言うのは、自分の中のことだよね。人と人とが一緒に何かするんだったら、時間を合わせたほうが効率がいいというか」

「そうか。時間の定量化というのは飽くまで社会的指標であり、自己内在化できないという解釈か。やっぱり冴子は冴えてるな」

父が何に納得しているのか、私にはわからないことが多かった。でもなぜか、父は私を評価していたらしい。そんな様子を見ている母も嬉しそうだった。私たち家族は、その一人一人をとってみると家庭生活を送っているのが想像できないと言われた。けれど私たちは仲が良かった。三人集まればうまくやっていると思った。それがどんな形であれ、人からどう見えようと、仲睦まじい家庭だった。

私の名前は父がつけた。私が生まれる前、父は私の名前をあらかじめ用意していなかった。私が生まれてから私を見てつけた名前らしい。父はこう言っていたそうだ。

「名前を付けるなら本人に合った名前を付けたほうがいい。どんな人なのか見もしないで名前なんてつけられない。名は体を現すというのに、体を見ないで名を付けるなんておかしいと思わないか?それじゃあまるで名に体を合わせているみたいじゃないか。僕は彼女自身に合った名を付けてやりたい。それにはまず、彼女がどんな人間なのか知る必要がある。」

父が私に付けた冴子という名前は「顔が冴えているから」ということで付けられたらしい。そして父が私に対して言う口癖は「やっぱり冴子は冴えてるな」だった。父は私につけた名前を気に入っていた。私はというと、自分の名前だからよくわからない。

父は私を一人の人間として扱っていたように思う。娘として特別扱いしているところはある。でも子供扱いしたりはしなかった。父は時々、私を尊敬しているようにさえ見えた。私にとって父とはそういう存在だった。家族なんだけど、仲間のような、母もそう。一つのグループのような、それぞれに役割があり、友達よりも親しく、お互いを認め合う、そんな関係。父も母も、私に何かを一方的に押し付けるようなことはしなかったし、何よりも私たちはよく話し合ったと思う。なんでもかんでも話し合って決めた。いつも父がわけのわからないことを言い出すけど、何故か私の言うことに納得したり、母は父と違って自己主張が強くなかったけれど、母の言うことに私が納得したり、父も同意したり、それは家族が集って話し合いをするというよりは、いつもの日常の姿だった。私たちはそうやって暮らしていた。

父は大学の先生をしていた。名のある大学ではなく、名のある教授でもない。何を研究して、どうやって生計を立てているのか私はよく知らなかった。ただ毎日スーツを来て朝から大学へ通う父の姿を知っているだけだった。その通っている先が大学というだけで、周りで見かける会社員の姿となんら変わりがなかった。父が大学で何をやっていたのか、私は気に留めたこともなかった。父が学生として大学に通っていると言われても、私は信じたかもしれない。でも父はよく出張に出ていたから、そこは学生と違うところだろう。父の出張は2,3日のときもあれば一週間、長くて一ヶ月以上のこともあった。けれど毎日のほとんどは、家から大学へ通う生活だった。時々母も一緒になって出張先へ出かけ、それは短いときに限られていたから、2日分なりの食事が用意されていたりした。私はその間、家に一人で過ごしていた。そういうことは滅多に無かった。

私が子供の頃から大学生になるまで、私たちの日常は続いた。そして父と母は出張先から帰ってこなくなり、後日亡くなったということが知らされた。悲しいというよりも、よくわからないことのほうが多かった。外国であった事故だから、細かい事情を聞いたところで伝える方も定かではなく、先週まで自宅にいた父と母が遠い外国で死んだなんていう実感は、とてもじゃないけれど持つことができなかった。