「セフレがいっぱいいる」と誤解された

先日バイト先の女の子と話していたときに、恋愛とかセックスの話になった、なった、というかそういう事を聞かれた。僕は「付き合う」とか「結婚」とかそういう括りについて否定的だということを話した。話しているうちなんでそうなったのかわからないけれど、彼女は僕に対して「セフレがいっぱいいる」などという印象を抱いたらしく、そのようなことをまた別の人にまで話していた。僕は慌てて「それは大いなる誤解だよ」というような弁明をしたけれど、その人にも他の人にも全く伝わらなかった。なんでかなーということを、今日バイトの作業をしている時に考えていた。そこで思い出したのが、以前に見たtogetterだった。

そこに書かれていたのは欧米の恋愛観だった。僕はどちらかというとこれに近い。でも自分の価値観について自分の言葉で語ってしまうとただのイカれたやつになってしまう。ここは欧米の恋愛観に則って「自分はこっち寄りなんだ」と誤解なく返答する準備を整えてみたい。

 

欧米の恋愛観とは

このtogetterや以前にどこかの本か記事で読んだ内容も含めた欧米の恋愛観というものを、自分なりにざっとまとめてみる。欧米人の恋愛観というのは、3段階に分かれている。第一段階がカジュアル、第二段階がコミットメント、第三段階がステディと呼ばれている。ステディという言葉については日本でも有名だからイメージが湧くかもしれない。それぞれ順番に見ていこう。

第一段階 カジュアル

カジュアルとはその名の通りカジュアルだ。それでは話にならないから簡単に言うと、カジュアルというのは選ぶ段階と言える。日本風にわかりやすく言えば、複数の人から一人特定して付き合う相手を選ぶ段階が第一段階のカジュアルだ。日本と違うのは、ここでセックスするのが当たり前だという部分だろう。セックスもせずに選ぶなんていうことはまずありえない。何故ならセックスも、付き合う相手を複数から一人に特定する際に重要な選考項目になっているからだ。当たり前の話だ、と僕はそう思う。だからこの第一段階はカジュアルと呼ばれる。実にわかりやすい。もう一つ日本と違う点があるとすれば、この3段階の恋愛観は、欧米では男女共通だということだろう。

第二段階 コミットメント

このコミットメントは少しわかりづらいかもしれない。日本語に訳すと多分「傾倒」とかになる。すなわち、第一段階のカジュアルが「選ぶ」段階であれば、第二段階のコミットメントは「君に決めた!」段階だと言える。これがどういう段階なのかというとなかなか伝わりにくい。具体的に言うと、一組の男女でも男男でも女女でもいいんだけど一組いて、お互いカジュアルの段階からコミットメントの段階に移行する時には「私だけを見て」というアピールというかアプローチをする段階となる。これがお互い同時に移行すればスムーズなんだろうけど、そうはいかないだろうからここが欧米の恋愛においておそらく最も大変なところになる。一人がコミットメントに移行しても、相手がまだカジュアルの段階であれば相手も自分にコミットメントしてもらうよう必死にアピールしなければならない。相手はカジュアルだから当然他の人ともセックスする。それに対して一方的にコミットメントしている側は何も言う筋合いがない。相手を振り向かせて自分一人に絞ってもらうよう努力するしかない。日本の恋愛のように口約束の「付き合う」一言では済まない。繰り返すがこの欧米の恋愛観は男女共通だ。

第三段階 ステディ

互いのコミットメントが上手く行き、その段階を越えるとステディになる。この段階に来るともう日本の口約束である「付き合っている」よりも全然固い絆で結ばれている。同棲とかする。そしてステディまで来て他の人とセックスしようもんならこの関係はもう終わりかもしれない。そもそもそういうことが起こらないか、もしくはそういう事が起こったとしてもお互い受け入れているか、そこまで出来上がった関係がステディだ。結婚とかする人であればそのまま結婚するだろうし、生活のパートナーにまでなっている事が多い。

ソースはありません

こういう欧米の恋愛観というのは検索したらたくさん出てくると思うから、詳しくはそちらを見てもらったほうがいい。この3段階の詳細部分については僕が想像で書いたところもあり、信憑性に欠ける。事実を述べたというよりは今回の話の前置きとして、僕の認識を記したまでだと思っていただきたい。僕自身もこの内容について確信めいた根拠があるわけではないんだけど、今まで触れてきた映画や文化から形作られてきた欧米観とも合っており、いわゆる「合点がいった」。同時に「自分もどちらかというとこっちだな」と思った。こういう恋愛観が一つのあり方として確立されていることを嬉しくも感じた。それも欧米では当たり前という力強い形で。

欧米の恋愛観はどこから生まれたか

これも根拠がなく、想像でしかない。おそらくカトリック系の国ではこのような恋愛観を持っていないんじゃないだろうか。この恋愛観は市民革命やリベラリズムから来ているように思う。慣習よりも互いの意志を尊重すること、自分で考え、検討して選ぶこと、選択に対して自分で責任を持つこと、3段階の恋愛観からはそういうリベラルの精神が伺える。右に倣えの日本では絶対に生まれない。

日本の恋愛観との比較

欧米の恋愛観に沿って日本を見てみると、まず第一段階のカジュアルが存在しないとも言える。恋愛を見据えていろんな人と遊んで選んで、ということはあまり無いんじゃないだろうか。少なくともそれが当たり前という風潮ではないだろうし、それが倫理的に良しとされていない風潮はあるように思える。性交渉も含むとなると尚更だろう。「これは恋愛の第一段階『カジュアル』なんだ!」なんて声を大にして主張できる人は少ないと思う(欧米人もそんなことはしないと思うが)。ただ一方、見方を変えればこのカジュアルは日本においてもカジュアルに存在する。日本において「付き合う」前がこのカジュアルの段階だとしたら、付き合っていない人との性交渉なんてざらにあるだろうし、意識しようがしまいが相手を選ぶ段階になっているとも言える。

明確な違いは、次のコミットメントにあるのかもしれない。第二段階のコミットメントは日本と欧米の恋愛観と全然違う部分だろう。日本だとわけのわからない「告白」とか「付き合う」とか「彼氏・彼女」なんていう口約束に移行してしまい、やはりコミットメントという段階は存在しない。口約束が出来上がってしまえば、日本の男女はその「付き合う」といういつから出来たのかよくわからない慣習に従うべし、という関係が成り立ってしまう。口約束が成立してしまうと、コミットメントの努力が必要なくなる。コミットメントの努力というのは、自分が相手を選び、相手にも自分を選んでもらう努力となる。欧米においては日本のように「付き合っているんだから」という口約束を口実に「彼氏・彼女」などというわけのわからない関係性をお互い強制できるわけではないのだ。契約でもなんでもない口実を元に相手に責任を押し付けるわけではなく、相手に自分を選んでもらうためには常に自助努力が求められる。実に欧米らしい。

ステディに関して僕はよく知らない。けれどそこにはお互いのコミットメントを乗り越えた二人が存在し、「付き合っている」などというわけのわからない口約束ではない信頼関係が既に築かれている。簡単に他の人とセックスしたり浮気したりしないか、もしくはそういうことを受け入れるような関係が出来上がっているだろう。生半可なことではこのステディには辿りつけない。もうパートナーに近い。まあパートナーと言ったって欧米でも不倫や浮気は当たり前にあり、離婚も多いからこの認識がどこまで正しいかはよくわからない。

まとめると、日本人にはカジュアルがなく、あったとしてもおおっぴらに認められてはおらず、コミットメントの代わりに口約束の制約制度があり、そこで関係が縛られる。日本人女性は欧米人男性に対しても、告白やセックスしただけで日本で言うところの付き合うような関係に移れるといった勘違いがあるらしい。欧米人男性が他の人とセックスしたら浮気だとか外国人が浮気しやすいとか言われるのはそのせいかもしれない。彼にとってはまだ完全にカジュアルの段階だ。カジュアルの段階でも「好きだ」とか「愛してる」とか言うから日本人女性は日本人的恋愛観で勘違いするのだろうか。欧米人男性にとって「付き合う」なんて口約束概念はなく、「告白」とか言葉は無意味に等しいのだろう。それにもかかわらず日本人女性に浮気とか言われたら「たかがセックスしたぐらいでステディになった気になってバカじゃねえの?こっちはまだカジュアルなんだけど?コミットメントの努力しろよ!」って思うのも無理はない。

本題

僕は日本に生まれずっと日本にいて、日本的恋愛観の中でこの「付き合う」とか「告白」とか「彼氏彼女」っていうのが無意味だと思っていた。そんな口約束で縛るとかアホらしくてやってられないと。でも欧米の恋愛観なんて頭に入っていなかったから、僕の考え方を人になんて説明すればいいのもかわからず「付き合うなんて嫌だ」「友達ともセックスする」なんて言ってると「あの人はセフレがいっぱい」などという大いなる誤解が生まれた。僕は見た目がいいわけでもモテるわけでもないから、そんな人間が「セフレいっぱい」なんて言われていると、第三者にとっての僕の印象というのは妄想癖か強がりか意味わからないか頭おかしいかのどれかだ。でも僕が本当に言いたかったことというのは、

  • 僕の恋愛観は欧米のそれに近いということ
  • つまり、カジュアル→コミットメント→ステディのような段階があるということ
  • カジュアルの段階で付き合っていない人とセックスすることはあるし、セックスしたからといって付き合うということもないし、その相手が友達だったということもあるということ(友達としか形容のしようがない)
  • その友達というのは世間一般で言われるようないわゆるセフレではないよということ

ただ、今日書いたこれを誤解なく説明する自信も僕にはない。