生きるつらさに向き合うということ

生きていくのがつらいという話は、なかなか相対化できる話ではない。個々人の環境や適性に沿った喜びや哀しみ、問題がある。「そういうのは誰しもが抱えることだから」という風に言ってしまうのは簡単でそれが何の解決にもならないことはまた誰しもが知っていることだろう。「人それぞれ」ぐらい意味がない。「一般論をいくら並べても人はどこにも行けない」という言葉があった。相対化というのは意味を成さない。自分の問題は飽くまで自分の問題であり、他人が同じ問題を抱えていたとしてもそれは所詮他人事に過ぎない。我と彼とは遠い距離を隔てている。状況が似通っていたとして、それを所有する人間が違えばそれはもう全くの別問題に等しい。しかしそこから何らかの教訓やヒントを得ることはできるかもしれない。他人の問題に共感するのではなく、他者の問題を自分事に当てはめて自分なりの対策や解決法、そこまでいかなくても方針やきっかけを得る手掛かりにはなるかもしれない。他人の話というのは共感するためではなく、そうやって自己解決に導くための要素として用いることができる。そこに価値があり、意味がある。共感なんかしたところで、そんなものはただその場を通り過ぎていくだけ。

生きていくのがつらいという話について、何か言うとすれば自分の話を書くしかない。では自分にとって生きるつらさというのは一体なんだろうか。それも改めて考えてみると、具体的な話というのは意外と思い浮かばない。些細な事から壮大なことまで言い出せば山ほどあってきりがない。生きることがつらいという感情はそういったぼんやりしたものではないかと思う。もしその状況を変えたいのであれば、動くことが重要であると感じる。好転するか暗転するかは誰も保証できない。しかしその場に留まっていたからといって、自分の周りが変わることはあったとして自分の内面は変化しない。つまり、たとえ環境が改善されたとしても内面においてその辛さを抱え込んだままの状態を維持することになる。そしてつらさに向き合うということは、必ずしも逃げないということではない。向き合うとはその言葉の通り、真正面から認識するということになる。向き合わないということはすなわち、意識の外に追いやるという意味に他ならない。向き合った上で逃げるという選択も存在する。それが良いか悪いかは状況によるけれど、例えつらさに立ち向かわなかったとしても、向き合うことは大切だと思う。そうでなければ今いる場所から動くことができない。

今ここにあるつらさは、動くことでよりつらいものに変わることもある。何も変わらないことだってある。運が良ければうまくいくかもしれない。もしくは悪い結果を招いたとしても、その身動き自体が今後の参考になるかもしれない。生きるということは、つらいことに向き合うことそのものだとも言える。人から学び、歴史から学び、それをそのまま取り入れるのではなく考え、自らに落とし込み、身動きをとるしかないのだろう。良いことは無いかもしれない。楽しいことや幸せなんて望めないかもしれない。それでも尚、身動きとってみようと思う。前を向いて一歩踏み出すのが大変であれば、意識的に一呼吸するところから、少し手足を動かす程度から。

そんなことを言って自分は何をしてきただろう。まだまだ足りない。もう終わりに差し掛かっているという意識はあれど、ここから始められることだってあるだろう。もう一度振り返る。今度こそ具体的に、自分にとって生きることがつらいということはなんだろうか。先日、「不安に押しつぶされて身動き取れなくなる」という日記を書こうとしたがうまくいかなかった。その時自分は先ほど述べた「身動き」すら取れないと感じていた。しかし現実はそうでもなかった。少なくとも流れるような日常の身動きは取れていた。身動き取れなくなるような不安についても具体的に考えてみると、自分の場合はそれほど大したことではなかった。

現代人にとって不安要素となるものは、大別すると3つに絞れるのではないかと思う。これはどこかにも書いてあったように思うけれどどこだったか忘れたので引用元を書くことはできない。3つの不安要素とは、お金、健康、孤独。それらは究極に言えば解決できない問題かもしれない。いくらお金を持っていたところで経済破綻や通貨の暴落、困窮の不安はどこかで必ず付きまとう。いくら健康の不安を解消したところでいつ病気になるかわからず、人はいつか必ず死ぬ。いくら親しい間柄を築いたとしても、人と人とは永遠に分かり合えない。孤独とはそういうものだろう。生きることのつらさを生み出すのはこれら三要素の不安ではないだろうか。同時にこれらは、永久に解決し得ない。残念ながら、生きるつらさそのものから完全に逃れることは叶わない。できることは何かというと、話が戻ってしまうけれど向き合うということ。向き合った上で、つらさを軽減するため努力するもよし、つらさと共に人生を歩むのもよし、そんなことより今ある時間を興味関心に向けて有意義に活用するのも良いだろう。それができる人はそもそも生きるつらさに悩むなんてこともないか。

自分はこの三要素の不安についてどう対処しただろうか。お金は全然無いけれど、今現在を生きる程度のことはできる。無職で働くのが嫌で、と言いながら困窮が迫ってはバイトで日銭を稼ぎ、かろうじて生存している。先々の不安というのは大きくのしかかり、生きるつらさを解消するには程遠いが、そのかろうじての生存で妥協している。それ以上求めることはお金の問題以上のつらさを生み出すことを知っているから。健康問題については、運良く病気を患っていないため特筆することがない。虚弱な体質や複数のアレルギーについて幼少の頃から悩まされることはあったけれど、生死を左右するようなものではなかったためその悩みもたかが知れている。僕自身はそれらをただ冷静に受け止めただけ。できる範囲で対処を試み、失敗したり避けることができたり、そういうことを繰り返してきただけ。最後に孤独の不安。孤独の不安についても幼少の頃からずっと向き合ってきたとはいえ、僕は差別を受ける境遇でもなければ天涯孤独というわけでもなく、それによって死に追いやられる程のことはなかった。僕の不安には深みがない。単に人は孤独であるという事実を受け入れ、その認識がブレないように努めながらも人との距離をとったり縮めたりして時々失敗したり、事実の認識を見失ったり、取り戻したり、それをずっと繰り返してきただけ。中には同じ失敗もあったけれど、人や歴史からの教訓、自分の経験を踏まえながら吹けば飛ぶような薄い膜を少しずつ積み重ね、厚みを増していっているのではないかと思う。いつまでもどこまでも同じ場所に居続けないようにしたい。

結局抽象的な話になってしまい、具体的なことは何も書けなかった。自分にとっての生きるつらさ、不安というのは所詮その程度の大したことではなかったということになる。身動き取れないほどのものではない。身動き取れなくなるほどの不安にまで自分を追いやらないということは大切かもしれない。冷静に頭を働かせるぐらいには余裕をもって生きるということ。それができれば苦労しないか。ここまで書いたところでただの走り書きに終わってしまった。僕が最初に言ったような、誰かの身動きを導くきっかけやヒントになるようなものは書けなかった。そういうことが書けて、誰かに伝えられたらいいと思う。自分がそうやって誰かの言葉を取り込んで、身動き取ってきたように。