文章力とかいらないと思う

この「なんとか力」って言葉があまりよくわからなくて、文章力以外にもよく使われるけれどいちいち何それって思ってしまう。語彙が少ないことを語彙力が足りないと言ったり、語彙が少ないでいいじゃんと思ってしまう。それはやはり英語のなんとかパワーに影響された日本語なんだろうか。そんな英語があるのかどうか知らないけれど(ストークリー・カーマイケルのブラック・パワーとかあったな)そんなものに惑わされてはいけない。

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なんとか力の話は置いといて、文章力の話に戻ろう。日本では教育の過程において文章の書き方というものを習う機会がない。作文の時間があったり読書感想文を書かされたりはしたが、文章の書き方をまともに習う時間があった人は小論文の試験対策をしたことがある人や大学でレポートの書き方を学んだことがある人ぐらいじゃないだろうか。少なくとも僕個人的には今まで文章の書き方なんていうのを一度も学んだことがない。それは学校でもそうであり、社会人になってからも無く、社会人を終えた今に至るまで一度も無い(IELTSのライティング対策で英語のエッセイの書き方を少し学んだけれどあれは省こう)。文章の書き方を学ぶというのは、ある特定の場面において、その形式を学ぶという意味において有効になる。場面によって求められる形式は異なる。論文には論文の書き方があるだろうし、社内レポートには社内レポートの、社外報告書にはそれなりの、裁判文書には裁判文書の書き方がある。それはもしかすると小説には小説の、ブログにはブログの、というのも多少あるかもしれない。しかしながら、自らの自由意思を発露する場においてそういった定型が果たして必要だろうか。求められていれば必要かもしれない。または何らかの結果を求めるのであれば、定型に沿ったほうが効果は得られやすいかもしれない。もしくはその定型よる制限こそが自由を発露するにあたり有効に作用するかもしれない。短歌や俳句などというように。

ただそれは、おそらく文章力には関係ない。どちらかというと文法、構成に近い。では文章力とは一体なんだろう。ひどく曖昧である。おそらくは説得力とかそういったものになるんだろうけれど、説得力自体がそもそも曖昧であり、受け手によって求められるものも異なる。一方では感情に訴えかけ、他方では論理的整合性が問われる。あるいは統計等といった実例のデータを重視する人も多いだろう。それは受け手もさることながら、内容にも合わせて変えていかないと有効に作用しない。これらが果たして文章力なのか。よくわからない。仮に文章力が、文章によって楽しませる力であれば違うだろう。情景を緻密に描写する書き方なんていうのも文章力かもしれない。感情がまっすぐに飛んでくる文章も文章力かもしれない。よくわからない。文章力なんていうのはそういうよくわからないものを言っている言葉ではないだろうか。自らが何か技能を高めたいのであれば、それが曖昧であっては何をやっているのかわからない。総括して文章力を高めたい、なんていうのはなんとなく金持ちになりたいって言っていることと同じで中身が無い。何がしたくて、それには何が足りなくて、どうすれば身につくか、そこをはっきり意識する必要がある。そしてそれは文章力ではないと思う。その枠組みにハマってしまうと、テンプレ通りの文章しか書けなくなるんじゃないだろうか。そんなものは全然おもしろくない。