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今は昔

オーストラリアのパースに来てから5ヶ月間働いていたファーム生活が今週で幕を閉じる。そのことについて同居人に、

「やっぱ寂しいですか?」

と聞かれた。僕は

「全然」

と答えた。この仕事を終えることや、この家を出て行くことが寂しいかというと、そういう気持ちはあまりない。ここで出会った人たちとの別れを惜しむとかそういう感情はない。寂しいって言うと少し違う。少し違うけれど、僕の中には何かその、少し違う感情があった。それがずっと引っかかっていた。これは一体なんだろう。そうやって考えているうちに出てきた答えが、無常観だった。

2015年の9月から2016年2月まで続いていたこの生活、朝から夕方まで農場で畑仕事をして、終わったら同じ家で過ごす。仕事仲間と昼夜も休日も共にする。共に食事とり、お酒を飲み、会話をする。人は入れ替わるけれど、ずっと一緒の共同生活が続く。それは良くも悪くもあり、同時に良いとか悪いとかそういうものでもなかった。最中にいる時は、まるで永遠に続くのではないかとさえ思われるような退屈な毎日。それが今週末を境にして、失われる。似たような時間は今後もあるかもしれないけれど、このひとときというのは永久に失われる。この侘びしさを無常観と言わずして何と表現できようか。

ここで出会った人と、今後どこかで再会することがあるかもしれない。「あの時はああだったね」そうやって話す二人はもうあの時の二人ではない。その過去の時間というのはもう亡くしてしまった時間であり、それを懐かしむという行為は、二人が共有した時間の喪失を哀れむ行為ではないだろうか。人も世も移り変わる。僕はまた一つの時間を失い、次の日を迎えるのだろう。嗚呼無常