30代という中年

今日が誕生日というわけではないんだが、自分も年をとった。30代ということは高校生までを2回分生きたことになる。生まれてから高校生までの人生と、その残り半分を比べたら時間の過ぎ方が全然違うと感じないだろうか。その感覚の差というのは単純に「期間内にどれだけの変化を内包しているか」の差だと思う。10代の頃は成長期があり、体格や精神の変化も富んでいる。環境、やることの変化、学ぶことの変化も著しい。もし高校生以降の人生がそれまでより変化に富んでいれば、後半の方が長く感じるかもしれない。ただ多くの人がそうであるように、やはり自分も高校生以降後半の人生というのはそれまでに比べて変化が乏しかった。大学に進学し、これまでの学校とは違う風に当たったと思ったら会社員になり、今度は打って変わって勤労生活、その間に実家を出て一人暮らしを始めたり、彼女もできたり、一人で海外旅行をしたり、他人と同居してみたり、そのうち会社を辞めて外国で生活をしたりと生活環境の変化はあった。しかし内面は、自分自身の中身はというと、成長期を通じた変化に比べほぼ何も変わっていない。感覚としては、19歳で成長が終わった。自分の枠いっぱい、打ち止めとなった。それ以降の変化というのは衰えであり、退化でしかない。年齢を重ねてからも知識を蓄えたり経験による物事の慣れというのはあるが、それらは本質的な意味で人間の成長と呼べない。もう変化はない。

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長いか短いか

同年代の人の話によると「あっという間に30歳になった」とか「気づいたら30歳になっていた」とか、30代に至るまでの人生が短かったように聞くことが多い。それが充実した時間を過ごせたからなのか、なにもないまま時間だけが過ぎていったのかは人によるだろう。苦労を重ねてきた人ならこれまでを長く感じるかもしれない。自分はどうだろうか、実を言うとどちらでもない。長いとか短いとか言うよりは、これまでの人生って本当にあったのか疑わしい。過去のことなんて全然覚えておらず、覚えている記憶は本物なのか、本当に自分の経験を通じたものなのか、現実だった実感が無い。自分を知る人や自分の過去を知る人に会い、話したりすると「確かに過去はあるんだな」と思うが、それが自分であったという感覚に乏しい。過去と現在の連続性があまり感じられない。ただここに、今がある。今というのはその瞬間に失われるわけだから、自分が感じられるのはいわゆる完了相であり、have+過去分詞で表すことができるような時制を感じている。切り離された過去も思い返すことはできる。それは今の自分とは関係がない他人の物語のようだ。だから、30代に至るまでの時間が長かったとか短かったという感覚がない。今のことしか自分事として実感できない。過去がそんなだから未来なんてのは当然考えられない。これから先のこと、この先何年生きるか、先が長いとか短いとかそういう意識が全然ない。

歳相応

同様に歳相応という感覚もあまりない。「いい年なんだから」とか「若いんだから」みたいな年齢に応じたあるべき像のようなものが薄い。自分自身についてというよりも他人を見てそう思うことが多かった。大人より大人びた子供もいれば、頭が良くしっかりした子供もいた。逆に年を経て尚子供じみた人を腐るほど見てきた。そうなってくるともう大人と子供が入れ替わっており、「大人びた」とか「子供じみた」なんていう言葉そのものが意味を成さない。人が経験を積んで成長し、熟成されるというのは理解できるものの、その天井やスタート地点、要する時間さえバラバラであり、時間という同一の基準で人と人を単純に比較できない。「何時間勉強すれば」とか「何年修行すれば」なんていう話は全て個人的な話であり、普遍性がない。1年かかることを1時間でマスターする人もいれば何年かかってもわからない人だっている。共通の時間軸で人を測ることは意味がないという実感が強い。だから歳相応なんていう言葉がしっくりこない。そういう話はだいたい平均値をとるもので、特別な天才や頭の悪い人は例外だなんて言えるだろうか。そうなってくると世の中のほとんどが例外ばかりで、それこそ時間を基準にする意味がなくなってくる。

文化による差別化

年齢、もしくは年代で分けることができるとすれば、それは同じ時代の文化を共有した人たちという括りになるのではないだろうか。年が同じであれば、この世界において同じ時代を過ごしている者同士であり、そこに共通点がある。我々の年代であれば戦争も高度経済成長もバブルも経験していない。ただ不況のみを知っている。パソコンがないオフィスやインターネットのないオフィスも知らない。ポケベルは持ったことないが携帯は高校生の時から持っていた。もちろんスマートフォンではなかった。スマートフォンは大学生からだった。40代、50代となるとそれがまた変わってくるだろう。その感覚の違いによって「若い」とか「年老いている」といった判断を下すことがある。いわゆる世代間論争みたいな話だ。「若い」と判断されるのは元気があるというよりも、時代の変化についてきているからそう判断される。いくら元気があっても考え方や行動、ファッションセンスや文化の基準が古いとその人はその部分においてまだ過去にいる人であり「年寄り」だと思われる。年老いた人というのは過去のものをまだ現代のものだと勘違いしている。そこで時間が止まっているから老人なのだ。過去のものを過去としてとらえ、現在は現在として更新できていれば若いと言えるだろう。過去を取り扱っているから古いという意味ではない。例えば古典文学を現代の視点から評価することは、過去を扱っていても古くはない。古典文学を流行りものとして当時の価値観でとらえていればそれはもう完全に老人だろう。ただこれはこれで非常に狭いものであり、同じ時代を生きた人であっても場所や分野が違ったり、興味関心の方向性が違えば同じ文化を共有しているとは言えない。国が違うだけで全く話が噛み合わなくなる。つまり、年齢とはその程度のものではないだろうか。「この年で若い」とか「若いのにしっかりしている」などという言葉は全く意味がない。やはり共通の時間軸で人と人を比べるなんてことはできない。人はそれぞれ自分の時間を生きている。それぞれの時間の中で、それぞれの人たちを「若い」「年老いた」と判断するなら、その人の時間がどこで止まっているかで判断することができる。ずっと更新されていない、新陳代謝が見られず朽ち果てていっている様子は老化の現れと言える。いくつであろうと懐古主義は老人に見られ、新しいモノ好きは若いと見られる。

肉体の衰え

こんなことを書いていると、30代である自分がまだ若いと言わんばかりに必死に抵抗しているように見える。いくら自分の感覚が過去と切り離されていようと、確実に老化を実感できる部分がある。それが肉体の衰え。体力に関しては元々無いためあまり変わらない。記憶力に関してもそうだ。昔のほうが冴えたとか、物を覚えられなくなったとかまだそこまで感じない。老化を如実に感じるのは、やはり見た目だ。シワが増え、ときどき白髪が生えてくるようになった。見た目の老化に関しては、スピードの個人差はあれど時間軸が一方向であり、年齢を重ねて若くなったりすることは決してありえない。頭脳や筋肉と同様に鍛えることはできるかもしれないが、若いころを上回るようなことは起こりえない。劣化は着実に進んでいく。ただこれも、過去の自分と比較した話であり、同じ年齢の他人と比べたところで個人差が激しく、生活環境や遺伝によっても大きく異なってくる。客観的な基準として年齢を持ち出すにはやはり無理がある。

「自分が若い頃思い描いていた30代と今の自分とのギャップがすごい」という話もよく聞く。当時の自分たちから見た30代というのはもっとしっかりしていた、とか。そんなわけない。自分は全くそんなこと思っていなかった。30代どころかそれ以上でもいい加減な連中をたくさん知っていたし、失敗していたり間違っている人を多く見ていた。当時思っていた事もやはり今と同じで「年取ってもこの程度か」ということだった。初めから、つまり若い時分から優れた人もいれば年齢を重ねることで成長する人もいて、いつまでも変わらない人だっている。その量もスピードも限界も様々であり、年齢が基準にはならない。人間は年齢を重ねることでただ老いていくだけ。30代という中年について思うのはこれぐらいかなあ。自分が30代ということで何か思うことは、特にない。これから40代に向けて肉体が急激に衰えていくかもしれない、もしくは何らかの形で終わるかもしれない。その時もおそらく同じようなことを考えているだろう。