芸術、ポルノ、商品

最近考えていたことの一つが、表現の自由と規制とポルノと芸術について。語り尽くされているテーマでありながら、はっきりとした答えを知らない。おそらく表現者としては規制は破るためにあり、罰を受けても構いはせず、その先に表現があり、人に迷惑かけようがその上に表現があり、誰かが認めようが認めまいが社会的な批判を受けようがそういったものは表現そのものと別の段階にあり、表現のためならなんでもするのが表現者だろう。そのうちルールの枠内で認められたものだけが世に出回るというだけ。表現そのものにルールはない。ルールの中の表現というのはもちろんあるけれど、それは縛りのようなもので表現をより際だたせるためのルールであり、規制するためのものではない。表現のためのルールと表現させないためのルールは全く別物。

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ポルノと芸術についてはどうか。その境界、区別はよくわからない。性交渉ばかりの映画や写真が一見ポルノと見紛えるものであったとしても、それは芸術だと言われる。一方で、春画や西洋絵画の中にもポルノを目的として描かれたものが芸術的評価を受けたりする。ここで明らかになるのは、ポルノか芸術かを区別するのはそれが作られた目的ではないという部分だ。ポルノを目的とした物も芸術になり得る。芸術を志した作品がポルノとして利用されることも当然あるだろう。芸術とは、表現者の主観では成り立たないということになる。しかしそれは、言い方を変えれば芸術の客観的な評価に限った話になる。客観的な評価はもちろん周りが決める。本人がどんなつもりで作品を作ろうと、周りがそれを芸術だと言えばそれは芸術として評価される。今ある成年向けの漫画やポルノ映像の中の一部が、時代を経て芸術として評価される物も出てくるかもしれない。

主観について言えば、周りがそれを芸術作品だと認めようが認めまいが、それは本人にとって芸術作品と成し得るだろう。表現者は周りが認めることを重要だと思わないかもしれない。そもそも世に出さないこともある。芸術は商品ではないと言う人もいるだろうし、ただの自己満足ととらえることもできる。芸術という枠組みにさえこだわらないかもしれない。そういった作品が、時代を経て芸術として客観的に評価されることも少なくない。表現者が芸術だといえば、それは本人の中で列記とした芸術となる。周りに認めてもらわなければ意味がないという人もいるし、周りから評価されようと批判されようと無視されようと関係ないという人もいる。表現はあくまで表に出すことであり、周りに認めてもらうかそうでないかは芸術かどうかというよりも、社会的に芸術という商品の枠に収められるかどうかというまた次の段階の話になる。

これは少し前の事例だが、マンガやアニメ、ゲームなどに出てくる児童への性表現を規制対象に入れるべきという国連の意見に反対する内容だった。こちらも芸術、表現の自由の問題というよりは、商品として世に出るにあたっての規制と言ったほうがいい。個人として自由にやっている分はアートだろうがなんだろうが誰も議論しないだろう。それを知った多くの人が求めて駆け寄ったとしても、現代においては表現者自身がそれを広告宣伝して市場に乗っけない限り弾圧を受けず、規制の対象にもならないと言える。芸術とは違う話になるが過去のインターネット犯罪が議論にならなかったように、偏った空間でそれを求めない人間が関与しなければ話題にならない。一般の目に触れることが問題になる。ポルノもそうだけど求めていない人にまで行き渡ったり、コンビニの陳列棚に並んだりすることが問題であり、それは表現の問題というよりも流通の仕組みの問題だと言える。表現そのものを規制するのではなく、その流通の仕組みを規制すれば一般の人の目に触れる範囲は法や社会の枠組みの中でおさまり、表現を本当に求める人が探せば見つかるという状況にしておけば問題ないんじゃないかと思う。特に現代では検索技術も進み、SNSも発達して同好者同士の交流も簡易になった。求める人が求める表現まで到達するのは難しくなくなっている。理解を得られない一般層の前にさらけ出して反感を買うよりも規制の枠外にある同好者の間だけで研究していたほうが理想的ではないだろうか。それらの表現は求めない人間にとって暴力にもなり得るため、マスへの市場に乗せて商業化するにあたる表現の規制が不要とまでは言えない。現代においては表現と規制の争いというよりも、商業とマスの争いではないか。