旅行の写真

旅行先で写真を撮るのは、人に見せるためというよりは思い出のアルバムのように、後から見返すために撮っていることが多い。自分が見たまま撮り、見返して、思い返す。写真を起点にその時の記憶を思い起こす。それはやはり写真があってこそ思い返せる情景であり、記憶や日記を頼りに思い返す情景とはまた異なってくる。写真を撮った前後であったり、撮った時のことが思い出せる。記憶や文章から思い返すのは、どちらかというと心情の面が大きい。写真から思い返せるのは感覚的な面が大きい。写真に収まらない、その場にいた時の映像の記憶が膨らんで、音や温度、空気、匂いまで、その記憶が鮮明であればあるほど、写真から呼び起こされるものも多い。それは写真を見なければ戻ってこなかった記憶であり、同じ日の同じ時間に書いていた日記を読み返して思い出す記憶とはまた違う。記憶を残すために写真を撮る。記憶を呼び戻すために見返す。

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一年前の今頃、僕はサラエボにいた。雨が多い時期で、この小さくまとまった首都を歩くにも傘を持っておらず、雨脚を伺いながら建物を出たり入ったりして進んでいた。20年前に紛争があった土地、あちこちに廃墟が残り、弾痕も建物のいたるところに見受けられる。町の人たちは明るく感じられた。中心部には観光客も多く、繁華街へ行くと紛争を経験していない世代の若者たちも多く見かける。車通りは多いが、活気があるというよりも落ち着いた町。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子がこの小さな町を視察している最中に殺されたというのは想像しにくい。当時はもっと雰囲気が違ったのかもしれない。僕が訪れた前年には当時のローマ法王が立ち寄り賑わったということだが、泊まったホステルの従業員はその様子を苦々しく語っていた。従業員は大学生であり、勉強の傍らホステルでアルバイトをしている。ボスニア人だが、彼の親類はモンテネグロにもクロアチアにもいる。元々は同じ国で、皆兄弟だったという。ボスニア人は一般的にムスリムが多いものの、彼は自分を無宗教だと言っていた。宗教の違いが民族闘争に発展し、一度は同じ国の国民として隣人だった人々が、殺し合って分裂した歴史への反発かもしれない。僕はいまだにユーゴスラヴィアに対する憧憬がある。あの国が多民族を抱えた社会主義国家として、負の側面も抱えずに成り立っていたことは奇跡に近い。「ヨシップ(ティトー)を悪く言う奴なんてどこにもいない」「あの頃(ユーゴスラヴィア)にはもう戻れないよ。あれはユートピアだった」僕らは何故今こんな世界に生きているのだろう。そこにいる彼らこそが、そう感じている。

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2年前の今頃はトロントにいた。トロントではよく、夜の街を歩いた。僕は他の人について行っただけで、彼らはナンパをするとか言っていたが上手くいっているのを見たことがない。何が楽しいわけでもなく、ただやることがないからそうやって夜の街を歩く。ときどきバーに立ち寄ったりクラブに入ったりするが、ただ酒を飲むだけ。そういう遊びが自分には合っていないことを知っていながら、誘われるままについていくだけ。夜遅く帰ることになり、学校は寝坊して遅れる。そういう日々を繰り返していた。どこにいても、それが何か自分にとって特別だったことは一度もなかった。5月頃のトロントは気候が良くて過ごしやすく、北米で、リベラルな移民の国で、多様な人々と時間を過ごして、そういった客観的な視点で物事を判断することはできるけれど、それが自分にとって何か特別かというと、何もない。日本にいるのとは全然違う。しかし生きている実感は無い。そういう意味では日本にいた時と同じ、虚ろな日々を送っている。自分に、自分の住むこの世界に実体が無いように感じる。事実何もしていない。それは学校に行っても、働いても、人と話しても同じだった。疎外されているわけではない。自分を含む空間そのものが、ジオラマのように感じる。僕はただそこで、時間だけを過ごした。時間が過ぎるまでじっと、そのジオラマを眺めていた。人生人生といつも考える僕に、人生はなかった。