コネ、人脈、繋がりの重要性

少し前に友人からニューヨークでフォトグラファーをやっている人の話を聞いた。その人は南米出身であり、大舞台で活躍したいという思いでニューヨークへと渡った。現地で有名な人のアシスタントになったきっかけから、今はフォトグラファーとして食っていけるようになったとか。そのコネクションの作り方というのが実に生々しかった。いわゆるゲイコミュニティのつながり、友人が言うには枕営業だろうといことだ。そういう例がどの程度現実に行われているのかは知らないが、よく言われるのが「海外では日本以上にコネが重要になってくる」という話。それらは時に、素性や経歴、秘められた実力なんかよりも強力に作用する。

 

"人脈"という手段の氾濫

何かが誰かに評価されるにあたり、物自体の良さ、それを作り上げるに至った努力や才能なんかが重要になってくるのは言うまでもないけれど、それと同等、もしくはそれ以上に人との繋がりが重要になってくる。直接世に売っていくためというよりも、広く世に知らしめるためやお墨付きを得るために人脈が活用される。そしてその人脈を得るためにお互いの利害が一致するような、反則的な手段も常日頃から用いられる。繋がりを紐解いていけば、世評の裏にキレイキタナイでは語れないシビアな世界を垣間見る。賄賂や枕営業、もっと穏やかなものであれば接待やらゴマすりやら、どこでも当たり前のように見かける。それらの手段というのは、物やサービスに対する商品としての価値の正当な評価に直接繋がっていないという点で一致している。

誰かに紹介してもらったおかげで大ブレイク、という事態よく目にする。運か実力か、意図せずそういう結果がもたらされることも多々ある。同時にそういった自らの利益になる繋がりを得るための、別のサイドからの戦略、営業活動も多い。ブログの話で言うと、自分のブログを拡散してもらうためだけに知名度の高い人と繋がるとか。自分の利益のためだけに近寄り、心にもないゴマをすったりヨイショしたり評価をしたり、本心では全く違うことを思っているような嘘八百の中身の無い関わりであったとしても、結果として自分の真の目的が達成されるのであれば立派なコネであり人脈だ。

"繋がり"の実態に見え隠れする嘘

僕はそこにどうしても割り切れない気持ちがある。自分の目的のために人と仲良くなるとか、別の目的のために違う努力をするとかそういう本来の目的と一致しない行動を取ることに前向きになれない。誰かと仲良くなるんだったらその目的は「その人と仲良くなりたいため」だけでありたい。相手に興味がなくても良い話が聞けるからとか、人脈が広がるからとか、アイデアを繋げられるからとか、その一歩先に別の目的・魂胆を一切置きたくない。それは何か、嘘というか詐欺というか騙しているようで、気持ちが乗らない。

例えば、偶然仲良くなった人を撮った写真が良かったのと、良い写真を撮るためだけに仲良くなることは全然違う意味を持つ。良い写真を撮るためだけに仲良くなるということは、良い写真を撮るという目的を念頭においた関係であり、その繋がりに偽りがある。良い写真を撮るためだけに築かれた意図的な関係は仲が良いと言えるだろうか。その写真は真実を写しだしたもの言えるだろうか。偶然仲良くなった人、もしくは元々仲の良い人と撮られた写真というのは、例えぎこちない写真だとしてもその繋がりに嘘がなく、当たり前だが本当に仲が良いと言える。対外的に得られる評価は同じかもしれない。ただ僕自身が当事者として乗り気になれないだけ。仲良くないと撮れない写真というのは確かにあるんだけど、写真を撮るために仲良くなるという行為に対して前向きになれない。相手にもそれを見る人にも、それをやっている自分自身に対しても後ろめたさを感じる。

意図的に作られた繋がりにおける嘘は二種類ある。一つは当事者に対する嘘。一方が別の魂胆を持って近付いているにもかかわらず、相手が鵜呑みした場合完全に相手を欺いている。もう一つは、底上げされた評価を信じた第三者に対する嘘。当事者同士はお互い包み隠さず利害の一致により分かり合っていた場合、その別の利害によって評価が水増しされていることを第三者は知る由もない。

甘い理想

これは倫理観とかそういう話ではなく性格の問題だ。自分がそうやって繋がる対象になるのもすごく嫌だった。見え透いたことをされて気分良くなる人の気がしれない。この感覚があまり理解されず、人は自分の利益のために着々と人と繋がり、利害が一致する取引を行い、その先にある別の結果を築いていく。また、子供じみた発想だとも言われる。目的を遂行するためには手を変え品を変え手段を選ばずありとあらゆる方向から全力で取り組むべきであり、お前の考えは甘いとかぬるいとか本気度が足りないとか、そんなこと言っているうちは子供の遊びだとか。

実際それで大家族を養ったり一財を築いたり夢を叶えたり必死になっている人から見ればそう映るだろう。ビジネスとか人生とか、お金のためにどうしても、っていうのはわからんでもない。実際僕もそういうことをやらざるを得なかったし、その行動や結果を否定したいわけじゃない。ただ、気分が乗らない。そんなことで得られた結果に満足を得られない。嘘偽りで仕事を得て地位が上がり金が転がり評判を得たり腹が膨れたりするかもしれない。しかしそれでも、いつまで経っても気分は乗らないままだ。意気揚々と肯定してその結果を受け入れることができない。評価するなら本当にその価値を評価したいし、評価されたい。そんなことを言ってるからぬるいって言われるのも理解できるが。

合わない現実

いっその事全部オープンになってしまえばいいのにと思う。欲しいところに欲しい情報やサービス・物が行き渡るような、公平な競争とオープンな市場があればそれが理想であり、そういう世の中であればコネや繋がり、人脈なんかに支配されることなく、それを築くための嘘も必要なくなるだろう。Googleの企業理念である「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにする」というのはその理想に近い。また、経済学の理論の前提になる完全競争などもそういった理想を描いたものになる。

しかし現実にそういうことは起こらない。ネットワークはいつまでも不完全であり、リテラシーの格差もある。不完全な状態で人はオープンな情報を重要とせず、オープンにならない秘められた要望と条件の中で生じる駆け引きを重視する。そこを繋ぐにはやはり、コネ、人脈といったアナログなルートの影響力が強すぎる。繋がりを得るために賄賂や枕営業みたいなことは、実際には行っていても評判を考えるとオープンにできない。そこに矛盾が生じ、表の顔と実態とのギャップが生じている。コネ、人脈、繋がりによって得られる結果が嘘偽り・ギャップを含んでいたとしてもそこに頼らざるをえないというのは、割り切れない僕にとって暗い現実である。公平な競争とオープンな市場という理想を実現するためには、人々が物事をより正確に、正直に、積極的に評価の声を上げていき、そういった情報が整理され行き届いていくしかないのだろう。大してうまくもないレストランに、お金をもらったからとか知り合いだからという理由で★5つ付けている場合ではない。