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アンキャッチー

日記

ブログの話です。最近キャッチーなタイトルを目指しすぎて逆にそこかしこにあるキャッチーに埋もれアンキャッチーになっていたかもしれない。これアンキャッチーって言い方であっているのか、最初に付ける言葉で反語を表す場合、英語にはいろいろなパターンがあってpossible(可能)のimpossible(不可能)とかlucky(幸運)unlucky(不運)とかregular(規則正しい)とirregular(不規則)とかrespect(尊敬)とdisrespect(ディス)とか必ずしもアンではない。

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まあそんなことはどうでもいいとして、キャッチーではないタイトルを目指せばそのタイトルも少しは際立つんではないかと安直な考えでその中身といえばやはり通常運転でアンキャッチーな内容を書いているだろうからタイトルと中身が一致するのではないかと思い、内容をより反映したタイトルを付けることで中身との整合性をつけて自分も所詮アンキャッチーな人間なんだからブログもタイトルも似たりよったりから脱却してアンキャッチーな路線で行こうぜと目論んでいるこの頃であります。埋もれるには埋もれるけれど埋もれ方が違う!様式美!思えば過去はそうだった。過去に書いていたようなことはわかりやすいタイトルで釣ろうなんていう浅はかな目論見がなく、検索にもひっかからないクリックもしない非SEOワード満載の日記ばかり書いていたような気がして初心に返るだけ、原点回帰、子宮回帰願望のIn Uteroなアルバムライフジャケット天使、わかりやすさ、とっつきやすさ、親しみやすさ、読みやすさ、さ、さ、サルでも分かる、そういうものからどんどん離れていけばいくほど自らを見つめなおすのにより有効な気がして計算式に当てはめた数字から解を導き出すようにその計算式は傍から見てなんじゃこれであればあるほど、ピッタリと当てはまる数字からすれば求めていた我、ということになりはしないか、そこは小手先のささやかな安らぎであり、意図するところではない。結局自分で読み返したところでわけがわからずに機能せず答えなんて導き出せないんだ実際、ジッサイというカタカナ表記でよく書かれていたのを目にしたサイコメトラーエイジ、このジッサイという言葉は実は英語でも非常によく使われる言葉で、会話していると三大よく出てくる言葉がactually(ジッサイ) kind of(〜感じの) well(そうだなー)という語感も語感で言語というのは遠い海を隔てても非常に似たような表現が日常で多用されているという現実でした。テレビの影響か!もしやテレビの陰謀か!アンキャッチーに戻ろう。アンキャッチーなタイトルで日記を書くにはアンキャッチーな日々を送り、アンキャッチーなネタを投下しないといけないわけで、ただアンキャッチーなだけでいいというのは実は非常に簡単だ。とてもつまらなければいいんだ。とっかかりのある話、ではない話。誰も興味を示さない話。やあそれいつも通りじゃないか。しかしポイントはタイトルに有る。タイトルで釣ろうとせず、いざ読んでみたら「ああなんだつまんない大した話でないでやんの」とならない、タイトルの時点で素通りするような究極どうでもよかったりわけがわからなかったり日常の一般名詞である時計とか、時計っていうタイトルならもしかすると時計ファンが「おお!これは!」と思って期待を裏切られるかもしれない、だったらもっと日常的で興味を惹かないような「ビニール」とか、ビニールに興味が有るのは喜んで有機化学、高分子をやっている人ぐらいだろうからごく少数のマイノリティだと言えるけれどそれに興味を持ってネット上のブログを敢えて見るなんていうことはしないだろう。専門家であればもう少し専門的な用語に気を引かれるはずだ。ポリ塩化ビニル、とか?よく知らない。残念なことに化学は何もわからないまま高校生活を終えてしまったおかげでその手の用語は頭の中からきれいに抜け落ちてしまっている。学校で学んで役に立ったことと言えば、ごく初歩的な計算能力と教科書的な知識で身についた言語能力、日本語や英語、それに社会科学の知識とか、そこそこ多いじゃないか。しかしそれらのほとんどは中学卒業までの義務教育の範囲であり、そのうちのほとんどが実際のところは塾で学んだことが多い。高等教育というのは自分には荷が重すぎて高校大学で学んだことはほとんどない。ただ通り過ぎただけで、記憶にすら残っていない。その過程を経ることが重要だと言う人もいるかもしれないが、少なくとも自分にとってはそうではなかった。得るものは何もなかった。何も身につけられなかったと言ったほうがいい。それ以外の知識や教養、そんなものがあるとすればという話だけど、そういうのは大体本から学んだり経験から学ばざるを得なかったというところがある。望むも望まざるも。だから良い先生、もしくは情報リテラシーと教材さえあれば学校は特に必要と感じたことがない。学校があって学校がなければなんやかんやという感想は今のところ抱いたことがない。図書館があればいい。残念ながら図書館は数少ない上に狭い。学校教育が発達した国や地域であればそれは有効に作用するかもしれないが運悪くそういう環境にめぐまれなかった。まあ、結局は塾でいいという話になる。松下村塾や鳴滝塾、寺子屋のような。日本の学校や会社組織というのはあからさまに軍隊を意識しており、その規律を重んじる精神や団体主義なところ、学校というよりは養成学校に近い。しかしまあ世の中には学のない人間というのがあせるほど存在して、学というよりは知識でもなく知能、自分が人のことをとやかく言うほどのものではないんだけど衆愚衆愚と叫ばれる昨今であり、教育は機能しているのか、知識と知能は平行してとらえることができるのか、生活の知恵や人間社会に適応する能力はまた別なのか、それらは指標して数値化するのも難しく、友達が何人いればコミュニケーションが100点とか、ではどこからが友達でどこまでが知り合いでそれ以下は見ず知らずの人なのか、個人と個人の関係性の構築は非常に難しく、セックスしたら男女関係なのか、人間同士の距離は一体どうやって測ればいいんだろうということで結局そんなことは考えるだけ無駄、目の前の作業だけ時間通り求められたクオリティでこなしてくださいというフォード・システム大量生産が求められるようになるのだろう。誰もがヘンリー・フォードにはなれない、あなたは所詮システムの歯車だ、そこで軍隊のような教育が行われるというのは理にかなっているという結論になってしまう。人間には誰しもが人間的な、機械に代用が利かない想像力や表現力に満ち溢れた可能性がある、というのは理想です。何の取り柄もない人間だっている。ものすごく知能が追いつかない人間だってたくさんいる。アイザック・ドイッチャーのような共産主義者の理想というのはまさに人間誰しもが理性を発揮できるという、基礎経済学で言うところの合理的な人間を想定するわけであり、現実は1割だってそのような人は存在しない。現在活躍している数少ない成功者のうちにそういった人たちがどの程度存在するのかさえ疑わしい。人間に備わる感情だって動物の本能を超越した立派な人間的精神の飛躍である。文明ではなく、文化なんていうものはまさに種の保存からかけ離れた無意味な概念であり、この先の進化に何の影響も及ばさない情緒の豊かさである。我々が大切にすべきなのは、そういったこと自覚することではないでしょうか。