「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」感想・書評

「どうして離婚したの?」

「旅行するとき電車の窓側の席に座れないから」

このセリフはサリンジャーから引用したと作中に書かれている。具体的にどの部分かというと、「フラニーとゾーイー」のゾーイー・グラースが母親のベシー・グラースに「どうして結婚しないのかね」と聞かれ「それはね、ぼくが汽車に乗るのが好きだからさ。結婚したらもう、窓際の席に座れないだろう」と答えた部分だ。

そういった海外文学からの引用であったり、作家や作品名が挙がったり、作品の中身を語ったりするのは村上春樹の特徴だ。この「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の中に出てくる別の例も挙げてみよう。

ミーチャ、イヴァン、アリョーシャ、それに腹違いのスメルジャコフ。『カラマーゾフの兄弟』の兄弟の名前を全部言える人間がいったい世間に何人いるだろう?

村上春樹作品を読むならそれぐらい読んでおけ!と言わんばかりの、鼻につくと言われやすい特徴。ノルウェイの森には「魔の山」や「グレート・ギャツビー」が出てきており、その内容を知らなければ永沢さんの「この時代に『グレート・ギャツビー』を読むやつなんて」みたいな言葉や礼子さんの「阿美療に『魔の山』を持ってくるなんて」みたいに皮肉られている言葉も理解できない。
(「ノルウェイの森」の舞台は共産主義を背景とした学生運動の時代であり、主人公のワタナベくんは資本家を象徴するような小説である「グレート・ギャツビー」を読んでいた。礼子さんと直子が居る「阿美療」は精神が病んだ人たちの療養所であり、ワタナベくんはそこに結核サナトリウムを舞台にした小説である「魔の山」を持ってきて読んでいた。)

そういった特徴は海外文学だけでなく、音楽や料理、英語や外国の文化に対する理解についても見受けられる。こういった村上節というか、村上春樹テイストがこの「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」にもふんだんに散りばめられており、読み返していて笑いそうになった。

この本を読むのは10年以上ぶり、前に読んだのは大学生の時かそれより前で、村上春樹作品としても3つ目か4つ目。村上春樹作品に対する世間の評価や、こういった部分が「いけ好かない」と言われていたことも当時は知らず、なんとも思っていなかったが今読むとそういった別の面白さを感じざるを得ない。ハードボイルド・ワンダーランド編(以下「現実編」)の主人公についてはその特徴が顕著に現れており、もうこれはわざとだとしか言い様がない。世界の終わり編(以下「空想編」)の主人公のような「そうでない」主人公は他の作品にもたくさんいる。現実編の主人公はそういうシニカルな自信に満ち溢れたわかりやすいキャラクターなのだ。

主人公に現れる村上春樹テイストは、海外文学や音楽、料理への造詣が深いこと以外にも、そこかしこに出てくる性描写、彼にまつわる都合のいい女、あらゆる物事に動じずただ残念がる描写(いわゆる「やれやれ」)、ウイスキーをずっと飲んでいる描写など、こんな男嫌い、そういう作風が嫌いと言う人がいるのもうなずけるわかりやすい描写で、それを知ってからいざ目の当たりにするとおかしくて笑えてくる。

この作品は1985年に発売された小説であり、今から大体30年前。最近ではこういった作風も変わってきているのかと思えばそうでもないらしい。最近の作品は読んでいないが、多崎つくるのAmazonレビューが話題になったという話を昨日聞いたばかりだ。

Amazon.co.jp: 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年の ドリーさんのレビュー

個人的な意見としては、そういった作風が好きでも嫌いでもない。肯定的でも否定的でもない。ただそこに描かれている実際の描写と、それを批判する人たちとのやりとりを読んで面白く感じる。著者とそれを批判する声、どちらに対してもバカにしているつもりはないが、面白いんだからしょうがない。ファンの人は怒らないで。

さて、この「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」について、表現の面白い部分だけではなく、真面目な感想をここから書いてみよう。と言っても作品全体の感想というよりは部分的な印象を抽出した感想になる。感想はこの作品を読んだ人、さらに他の村上春樹作品をそこそこ読んでいる人を対象に書いているため、そのつもりで。

生きることに対する諦観について

人間の行動の多くは、自分がこの先もずっと生きつづけるという前提から発しているものなのであって、その前提を取り去ってしまうと、あとにはほとんど何も残らないのだ。

これはセリフではないんだけど、現実編の主人公が自身の心情を述べる部分だ。主人公は明日の死が確定してしまい途方に暮れ、何をしていいかわからず、残された限りある時間を公園でビールを飲みながら無駄に費やしてしまう。そこで現れるこの心情というのが、僕には非常に理解できるものだった。

今を精一杯生きている人というのは時間を何よりも大切に考えるが、死を前提として生きていると、時間というのはただ潰すため、無駄に費やすためだけのものになってしまう。限りある時間をいくら有効に使ったところで、その先にあるのはただの死であり、何をどうやっても全てが無意味であるように思えてくる。もし仮に、明日死ぬことが確定したら、今日一日をどのように過ごすか?そういった質問はよくあるけど、その質問に対して「欲望の限りを尽くす」というように答える人は多いかもしれない。しかし本当に明日死ぬとなれば、そんな欲望を満たしたところで明日には全ては無に帰すだけであり、そんな意欲もわかないんじゃないかと思う。だから「何をしたって明日死ぬんだ」という事実が目の前にがあれば、その1日は意外と無意味に過ごす人が多いんじゃないだろうか。

それが確定された明日ではなく、「人間いつかは死ぬ」という確定された未来を前提に考えた場合に、同じ心境に至る人がいてもおかしいとは思わない。自分がそうなんですけど。

大好きの多用

他の作品でどうだったかは覚えていないが、僕がこの作品を読んでいて気になったことの一つとして、「大好き」という言葉が多用されていることがあった。事あるごとに「僕は〜することが大好きなんだ」と表現されており、それは食べ物や時間の過ごし方、音楽、場所などで使われていたように思う。「大好き」は現実編でしか使われておらず、シニカルな自信に満ち溢れた主人公のこだわりをわかりやすく表現しており、いかにもな言葉だ。僕自身は「大好き」なんていう言葉は日常においても文章においても使ったことがない。時代が反映されているのだろうか。「大好き」って普段言う?

二人の女

この小説には二人の女が出てくる。太った女と図書館の女だ。「二人の女」は村上春樹小説でおなじみであり、それが何をモチーフとしているかもよく言われている。全ては想像や解釈でしかないが、太った女と図書館の女は「ノルウェイの森」に出てくる緑と直子であり、同時に彼女らは村上春樹自身の奥さんと、村上春樹の元彼女でもある。

「ねえ、私が今何を考えているかわかる?」

これは「ノルウェイの森」に出てくる緑のセリフだが、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の太った女のセリフでもある。太った女は有能で行動的であり、自らの意見をはっきりと言うサバサバとした女性だ(この作品では17歳であり女の子と言ったほうがいいかもしれない)。こういった特徴から見ても緑に似通っており、同一人物だと考えられる。村上春樹の奥さんがどういう人かは知らないけれど、「ノルウェイの森」の緑は村上春樹の奥さんをモデルにしていると言われており、この三者が合致する。

図書館の女はこの小説に二人出てくるが、同じ人物だと思っていい。現実編の彼女は詩を繰り返すような独特な言葉遣いをしており、「ノルウェイの森」の直子を思わせる。直子も図書館の女二人も性格は皆それぞれ異なっているが、それは年齢を反映しているのか、現実編に出てくる図書館の女は29歳であり、「国境の南、太陽の西」に出てくる島本さんや「風の歌を聴け」に出てくる小指のない女に似ている。空想編の図書館の女は心が無いという設定のため描写があいまいだけど、直子に近いと感じる。直子は村上春樹の元彼女がモデルと言われており、これら全てが同一人物だと考えられる。いろいろな作品名を挙げて、読んでいない人からすれば何のことやらと思うかもしれないが、以前書いたように村上春樹作品というのは同じ物語を色々な角度から何度も書いている。 

村上春樹 早稲田大学時代

今回再読した「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は図書館の女を救おうとする物語である。現実世界では主人公の死が確定してしまったため、図書館の女を救うことができない。だから空想の世界で主人公は、図書館の女を救うために影と別れ、世界の終わりに残ることを決断する。空想と現実のどちらにおいても救われない図書館の女を、せめて空想の世界で救おうとする物語という見方ができる。現実編において太った女も図書館の女も、空想の世界(世界の終わり)で主人公と一緒に暮らしたいと言うが、太った女は空想編に登場しない。彼女はまさに現実を象徴する人物だと言える。この作品においてはあれだけ世話になった太った女に対する冷遇が著しく、主人公の気持ちは図書館の女に集中して注がれており、物語の流れも図書館の女を救うことだけに徹底している。

村上春樹の小説というのはこの、妻と元彼女をモデルにした二人の女性が頻繁に登場する。現実の村上春樹は妻と結婚して暮らしているが、現実には救えなかった元彼女を小説の中でなんとか救おうと、同じ物語をいつまでも書き続けている。

意外な結末について

初めてこの小説を読んだとき、本の裏表紙に書かれていた「物語を結ぶ意外な結末」という言葉を読んですぐ「あ、現実世界に戻らないんだ」とわかりひどく興醒めしたのを覚えている。物語の流れを追っていくと、現実編で博士から「お前次第」みたいな事を言われたものの、空想編で図書館の女の心が戻るかもしれないというくだりが見えてきたあたりからこの流れは確定していた。主人公が世界の終わりに残ることは意外な結末でも何でもない。しかし初めて読んだ当時はこの一連の流れが読めていなかったため、やっと現実世界に戻ってこれそうというところを裏表紙で「意外な結末」と書いたために早々にネタバレしたと思ってがっかりしていた。

実際はそのようなことをあまり考える必要がない。流れは必然であり、結末は意外でもなんでもない。何故空想の世界に残るという結論に至ったかという部分が重要であり、それは先程の「二人の女」の項目に書いたとおりだ。図書館の女以外の理由として「責任を取りたい」みたいなことを言っている部分については正直よくわからない。そこはこの本を一つ物語として完結させるために必要だった理由だと言えるかもしれない。  

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

 
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻 (新潮文庫 む 5-5)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻 (新潮文庫 む 5-5)

 

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