辞めた会社の人たちと会ってきた

二度の機会の中で5人と会った。そのうち一人は転職し、一人は専業主婦になり、他の3人は同じ会社で働いていた。僕は3年前に辞めてから外国でダラダラ過ごしたのち、大体一ヶ月前に日本に戻ってきたところ。何もしていない。務めていた会社を辞めたのだって、前向きな理由はなかった。働いていたときからもうずっと人生は終わっていると感じており、このまま働き続けたところでただ死ぬだけだから、死ぬ前にやり残したことは何か考え、外国に住んでいた。英語の学習だとかこの先のキャリアだとか、そういった前向きな理由はどこにもなかった。3年が経ってそれも終わり、貯金を使い果たして今に至る。その時間が無駄だったかと言えば、見方によってはそうだろうし、そうでないととらえることもできる。自分にとってはどうかと言うと、元からあってもなくて同じだった。もうずっと前から人生は終わっている。終わった人生をどう過ごそうと、大差ない。同じだ。

 

元同僚たちは、あまり変わっていなかった。老けてさえいないと感じた。3年ぐらいで人は変わらないのかもしれないし、この歳になってもう人間は変わったりしないのかもしれない。もっと先になれば老いが露骨に見えてくるから、「まだ変わっていなかった」と言ったほうが正確か。彼らを取り巻く状況は多少なりとも変化していた。子供が増えている者もいれば、離婚しそうになっている人がいたり、先日書いたように不倫している人もいる。4つ上の先輩は年収が700万を超えていた。同期の人間はみんな結婚して一部子供もおり、年収も500万を超えている。会社は新たなM&Aをしたみたいで安定しており、歴史があって信用もある。30過ぎにしてはなかなか上位に食い込んでいるんじゃないだろうか。彼らにはそういう生活がこれからも続く。圧倒的な社会的ステイタスを築いている。そういう生活を捨て、根無し草の今を過ごしていることに後悔しているかと言えば、100%ないと言い切れる。

元々誰かに認められたいという願望もなければ、仕事が好きでもない。お金は生きていく上で必要だったという程度で、それ以上でもそれ以下でもなかった。生活に必要以上のお金は持て余していたし、ほぼ無駄遣いに消えていた。その貯金のおかげでカナダの語学学校に通ったり2年半の海外生活や10数ヶ国の旅行ができたんだけど、それも無駄遣いと言ってしまえば無駄遣いには変わりない。それよりも、そのお金を得るためだけに受けた苦痛のほうが耐え難かった。精神と肉体の摩耗で狂いそうになっていた。生命の危機を感じていた。あのまま労働生活を続けたところで、苦しみながら死期が早まっただけだろう。自分の器じゃなかった。

しかたなく働いていた。大学を卒業して、ただ生活しなければいけないから働いていた。興味ない仕事をしていた。知識が増えても経験を積んでも、得られたのは多少のお金と使い道のない社会的ステイタスだけだった。ずっと嫌々やっていた。気持ちは全く乗らなかった。そういう気持ちを抱えたまま人前では表に出さず、データを分析して考えに考えて体を酷使して笑顔を振り撒きハキハキと喋ることは苦痛以外の何物でもなかった。その苦痛の前では、褒められることも喜ばれることも認められることも評価されることも無価値だった。喜びはなく無感情、時には恨みさえ募る。何でこんなことをやっているのか、何故こんなことをやらなければいけないのか、そうやって苦痛から逃げるように社会人人生を捨てた。

彼らが変わっていなかったということは、適性があったのだろう。僕と同様の苦痛は抱えているかもしれない。それ以上に何か目的や目標、お金ややり甲斐によって喜びを得ていたのかもしれない。彼らを支えているのは家族や社会に対する責任感や、真っ当であろうとする意志だったかもしれない。僕にはそういったものが全て欠けていたから、あのまま続けられなかった。真逆の人生はきっと、同じ職場で働いていたときから既に決まっていたのだろう。どうせ死ぬことは決まっている。自分の人生だって、とうの昔に終わっていた。あとはただ、出来る限り苦痛を取り除いて、終わりの日を待つばかり。