いろいろどうでもいい気持ちが強くて。昔、稲中卓球部というマンガの田中が何かもどうでもよくなったというどうでもいい話があったけど、まさにあんな感じで、もっと言えば自暴自棄まで行かない、出不精な自暴自棄、消極的な自暴自棄、少し前にブログ記事のお題で「もし100万円もらったら」みたいなのがあったけれど、その100万円でケツを拭くような自暴自棄、いや、そんなことしないな。100万円もらったら旅行する。しかし今そういったどうでもいい状態に陥っている。今?ずっとか?そうかもしれない。考えれば考えるほどドツボにはまり、しかし人はそんな状況でも生活のために働くのだろう。飯を食うために。それが惨めでならない。そこに何か生活の意思でもあれば、例えば家族を養うためであったり、欲しいもの、目的、やりたいこと、なんでもいいけれど何か一つでもあればそんな惨めな気持ちにはならない。旅行のためにバイトをするほど旅行が楽しかった時期はもう過ぎた。惨め、惨めとは少し違う。ただ嫌なだけだ。そんな生活に、そんな人生に何の意味が、そんなことばかりが頭を駆け巡って、そうやって一部の人はニートになり、路上生活者になり、残飯を漁りながらほそぼそと死んでいくのだろう。それこそが自分に嘘のない、正当な、真っ当な道であるようにさえ思える。そういう気持ちから抜け出すには、その先を考えなければならない。その先、その先に何があるのだろうか。一つ、山奥、二つ、危険地帯、三つ、奴隷、どれーも嫌だなーだったらここに留まろうということになる。人事だから、所詮人事だからどうとでも言える。何を犠牲にして何を得るか、得るものがなければただ犠牲にするだけ、ああ、何か欲しがりたい。本音を言うと、その欲求が欠けている。必要な物は食事だけで、それ以外に何か、求める物がいる。そんなものいらない。欲求が足りない。やりたくないことを書き連ねていったら何も残らなかった。まだ我に返れそうで、ときどきそれを客観的に見ている。ブクブク太る。